深爪エリマキトカゲ
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◆ 『正しさの構造分析』のまえがきらしきもの
過去に書いた文章の中から面白いのを見つけた(読みにくいけど).

本が書きたかった時期があったようで(他人事).

ってそんな昔でもないけれど(でも他人事).

そいやインプットとアウトプットをバランス良くせにゃって昔言ってたけど,

今は相変わらずインプットだけで満足してるなぁ.

なんやろ,まだ若いんかな?(爆

さっき読み返してみて,

微妙にウチダ氏ブログの紹介になってるかもしれないと思った.


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『正しさの構造分析』ちっひー著

2009/11/25 02:02
実質の伴わない「正義」が蔓延する昨今、
どれが本当の正しさかを探すことは短観すなわち、
その場しのぎ以上のソリューションたりえず、
それぞれの「正しさ」が実際には何を表しているかを、
分析することが世の中を冷静に判断する第一歩と考える。

もちろん「正しい」と言いたいがための正義もあるが、
中身のある正義も存在する。
が、中身はあっても、その詳細な記述を怠ったために
信憑性や実感に欠ける言説ととられる正義論もある。
僕が分析対象としたいのはその両者ともだが、
特に解き明かしたいと思うのは後者の「正しさ」だ。

例えば、「正しい言葉」という表現。
僕らはみんな小・中学校、高校で習う。
ここでの「正しい」とは、「標準的」という意味だ。
多くの人がそれと了解していて、
使いこなせていれば、そうでないよりも他人との
意志疎通の成功確率が上がる。
つまりここでの「正しさ」は人とのコミュニケーションを
円滑にするためであって、
コミュニケーションの場で相手の「正しくない」語法を
あげつらい非難して相手の交流意欲を削ぐ姿勢は、
本来の目的からすれば「正しさ」の使い方を
間違っていると言えるだろう。
(考えている場が教育の場もしくは教育的配慮を含んだ
交流の場(例えば職場の上司と部下)であれば、
上のように全面的に間違っているとは言えない)

(2009/11/26 21:26カラ)
例えば、PC(政治的正しさ)という言葉。
「この前来ていたカメラマンが(PC的には
 カメラパーソン?)…」
とウチダ氏も皮肉まじりに書いていたが、
PCは言葉通り、社会的に正しい言葉遣いを
政治の権限で決めましょうはい決めました、というもの。
この言葉がよく使われるようになった(卑俗的に言えば
流行りだした)きっかけは調べれば分かる話だと思うが、
想像するに
①社会運動家のご機嫌取り
②社会道徳退廃に対する官僚的打開の一策
③…(まだありそう)
くらいではないだろうか。
で、これを守っていれば公の発言(の場)においての
セクハラやアカハラ、差別や責任問題などを防げる、
という見立てがある(のかな)。
それが実効的に作用する場面も確かにあるだろう。
だがある一面には必ず裏があるもので、
(「法は破るためにある」という意味で)
PCを逆に利用して相手にダメージを与えるような
場面も想像に難くない。

で、一般的にどんなことにでも言えるが、
規制すれば何も問題がなくなる、という法規を作る際に
その法規が万能であればあるほど(すなわち当法規の
保護下(対象)たる一般市民の気遣いや努力の
必要性がなくなればなくなるほど)、法規に甘んじる
ことに抵抗のない人間(というか意識しなければ
抵抗など感じない)はどんどん退廃していく。
「これを守りさえすればよい」という枠組みの盲信は、
元来その枠組みを構築する側が当然持ち合わせていた
「質的なもの」(他にいい言葉が浮かばない)のうち、
法規(=枠組み)に明文化されていない部分に対して
文字通り「盲目」になる。
何らかの統治システム構築に携わる人間が最も
気を遣わなければいけないのはこの点、すなわち
「自らが思い描く(又は過去に経験してきた)組織運営の
理想像と、その再現性を実現するために設計した
システムをある組織に適用する際の想像との間の、
質的な差異をいかに最小化するか」であるが、
そのシステム設計を業とする人々には
あまり重要視さえていないように思う。
(それは設計者の対象が自分の組織であって組織運営の
如何が直接的な影響を与える状況とは違う場合だ)
システム設計を業とする人間が商品たるシステムに
最も気を遣うのは、
「いかに実効性が高そうに見えるかどうか」である。
効果があると設計者自身が分かっていても、
それをプレゼンする手段を持たない(くらいシステムが
複雑なのか設計者の力量不足なのかはおいといて)場合、
効果が減じてでもシステム利用者に分かりやすい効能や
その実効性を担保する仕組みを持つシステムに
作り替えるであろうことは容易に想像できる。

閑話休題。
PCの話であった。
要するに、どういった成果を得たいかは分かりやすいが、
本当にそんなうまくいきますかね?ということだ。
いや、違うかもしれない…
理念先行すぎゃしませんかね?てことかな。
(2009/11/26 22:21マデ)

いくつかの「正しさ」の具体的事例を分析すれば、
それは他の多くの正義論に適応できるはず。
また、その適応の過程で新たにカテゴライズすることも
可能だろう。
そして一度そのような「分析眼」を持てば、
前述の「言いたいがための正義」の浅薄さを見抜き、
「正しい」と言うだけで済ますには言葉足らずであり
詳細な記述を起こすことでゆがみなく伝わる言説を
見つけ出すことができるようになるだろう。
それは上っ面をなぞり合うだけのコミュニケーションを、
各人の思いのこもった「主観のせめぎあい(?)」の
実現したコミュニケーションに変えることにも通ずる。
そういった本質的な(=お互いの底の部分を揺るがす)
コミュニケーションを望まぬ人が多いのは事実だが、
彼らの中にもし現状からの脱却にコストより大きな
ベネフィットを見込む(もしくは願う)人間がいるならば、
その願望実現の助力となれば幸いと考える。


と、書けるはずのない本の前書きを書いてみた(笑)
書いてて思ったのだけど、
わりとこういった前書き的なブログ記事は書いてて、
記事としては毎回それで満足して書き終えるのだけど、
これらを本の前書きとして考えたならば、
本の本編を書かずに言いたいことを済ませたことになる。
まぁ別に当たり前のことで、
前書きで収まらないくらいの書きたい量があるからこそ
本でいう本編が存在するわけで、
つまり仮に今の僕に執筆意欲があるとするならば、
その意欲に敵うだけの内容を持ち合わせていないのだ。
それは今のところ自分がひとまとまりとして
言いたいことを、字数を大してこなさずとも
言い切ってしまえるということであり、
でも実際のところ本を書く内容と伝えたいエッセンスは
あまり量に差はなく僕の方に表現力が圧倒的に
足りないことを意味するに過ぎない。
ウチダ氏なんか著作で毎回同じことを言っているけど、
それでも面白く何度も読める一つの要因はその
カラフルかつ核のしっかりした「表現力」にある。
だから何が言いたいかといえば…
僕の今現在の志だけ見ればわりと十分あって、
表現力さえ身につければ案外さらさらっと
本が書けるのではないかなーと傲慢ながら思うのだ。
…構想を練っておこうではないか。

2009/11/25 22:34
後半部分は正直いらないな。
前半部分を書いてから一晩おいて、
見直してみて思ったこと。
別に何か面白いことを思いついたわけでなく、
紹介すべき知見を自分の視点で解釈し直した、
というほど大層なものでもない。
本のタイトルが思いついた時に、
発作的にまえがきを書いたのだ。

で、それを改めて見て、
まぁまぁ勢いがあるかな、と思ったのだ。
ウチダ氏のブログを長いこと読んでいて
思うところはそれは沢山あるのだけれど、
中でも「筆の勢いの良さ」は群を抜いていると感じる。
思いついたことをほとんどそのままの形で
文章に書き起こせているように思える。
と言うとウチダ氏的には間違った捉え方であって、
最初のきっかけさえ作ればあとは「書いている文章が
勝手に続きを紡いでいってくれる」のだ。
ウチダ氏はその「他者たる自己」の思うがままに
キーボードをちゃかちゃか叩いているだけである。
で、そのような文章は読み手にもそういう情景が
浮かぶほどにリアルなのだ。
ウチダ氏特有の括弧書きの多さや突飛なメタファー、
良く逸れる話と閑話休題による強制回帰。
慣れないうちは「どんな思考回路してんだ」と
訝しく思うこと必定(ひつじょう)であるが、
慣れてくればそれらがいかにも自然に
流れていることがわかるのだ。

ウチダ氏は(そりゃあ年季もあるし)手持ちのツールも
沢山あるので勢いに任せて書いても一般読者を
うんうん唸らせる文章を書くことができる。
その彼と同じようなノリ(勢い)で、
表現力も文章力もない年若の人間が文章を書けば
何が出来上がるかな、と試してみたのが今回の記事だ。
(存分に後付け臭漂う話だが)
思うに、こういった「勢い任せのはっちゃけ執筆」を
定期的(例えば年数回?)にやっていれば、
現在の自分の筆力と、過去と比較しての成長度合が
わかるのではないか。

おお、わりと面白そうだな。
…まぁ、毎年末にやっている「ゆくとしくるとし」も
同じような趣旨と考えられるのだろうけれど。
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by chee-choff | 2010-04-30 11:28 | 思考