深爪エリマキトカゲ
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◆ ゆくとしくるとし(’09→’10)2
さっきまで飯食いながら紅白見てました.

子ども司会って何(汗

恥ずかしくて直視できなかったんだが(汗

なんだかどんどん学芸会的になっていくなぁと

久しぶりに見たのにそんな風に思った.

自分(の趣向)が老けたか.

多分そっちやな.


+*+*+*+*+*+*+*+*+*


今年はどんな年であったか.

これはもう単純明快.

今年は「読書の年」.

(もしか去年も同じことを言ったかもしれないが)

今年は自分の読書スタイルが定着したんではないかと思う.

去年はわりと「色々なジャンルの本を読まなくては」という意識を持って,

そうでなければ絶対手を出さないような外国の古典文学を読んだりしていた.

(メルヴィルとかドストエフスキーとか)


今年はその縛りがかなり薄れたのかな.

春過ぎか夏前か忘れたけれど,

内田樹のブログをプリントアウトしてファイリングして本格的に読み始めてからは,

氏の趣向や付き合い(対談とか)に沿って読書の幅を広げていった.

それを今思いつく限り並べてみると…

 橋本治
 養老孟司
 鷲田清一
 春日武彦
 平川克美
 苅谷剛彦
 諏訪哲二
 池谷裕二
 …

まだいた気もするけど, 

古本屋で彼らの本を見つけたら問答無用で購入する,

とかやってたら本棚におさまりきらないくらい本が増えた.

 どうしよう…寮行ったら今より確実に狭くなるんだけど.

 テレビは当然いらないとして,PCもノートにせにゃいかんかな..

さておき,そういってある意味一つのテーマ(「ウチダ氏がらみ」)に沿って本を読んでいくうち,

自然と自分の好みと,理想とするスタンス(世間に対する構え方)も形成されてきたように思う.

キーワードは今年の記事で何度も触れてきた,

 「節度」 「身体性」

あたりかな.

「節度」というのは,自分がある意見を言う際に

「棚上げにすべきでない部分はきっちり述べる(あるいは表す)」姿勢のこと.

「身体性」を備えた言論というのは,

「自分の体で(通常の意味で)責任が取れる」範囲で語られる言論のこと.

この二つはとっても深くリンクしていて,

「節度」の保たれた言論には「身体性」が備わっている.

逆も然り.

等価…と言えるのかもしれないけど,

「節度」の具体的な発現の一つとして「身体性」の担保がある,

くらいなもんだろうか.

これは言論の内容の問題ではなく,語る姿勢「語り口」の問題.

いくら本の内容がどれだけ常識から外れていても,

それを著者は当然認識していて,かつ理路もきちんと示されていて,

その「外れ方」にこそ意味があることが読み取れれば何も問題はない.

(その読み取りが可能なリテラシーのハードルが高すぎると

「本がほとんど売れない」という意味では問題かもしれないが.

その意味で橋本治は損してますね.

もちろんその損得勘定は彼に言わせれば俗世の感覚なのだろうけれど)

(あるいは,そういった「生半可に読めば腹立ただしくて不愉快な」本,

以前はほとんどメディアに注目されていなかった本が近頃売れているという事実は,

明らかに世間の意識の変化を示していて,養老先生もウチダ氏も,

自分の出してきた著作の売れ行きの変化でそれを感じ取っているのではないかと思う)

上に挙げた著者らは僕の感覚からするとみんな,

その「節度」と「身体性」を備えているように思う.

(ウチダ氏の受け売りと言われればそれまでですが)

僕はそういった著者の論の提示における「節度」にこだわるようになった.

まぁこれも正確に言うならば,

「意識してそうしている」というよりは,

「身体に耳を傾ければそうなる」という感じだろうか.

「なんかこの人ヤダ」と言った時の「なんか」に対する信頼度が,

この一年で随分培われたんではないかと思う.

 この話にも注釈をいくつか付けないといけないのだが…

 そしてついでに(おい笑)一年を振り返る本来のテーマに戻ろうと思うのだが,

 まずこの信頼度が発揮されるのは今の僕は完全に「本を読む時」に限定されてしまっている.

 それはご多分に漏れず今年もろくに人とからまず本ばかり読んできたからであって,

 さらにこれも自覚していることなのだけど,そのコミュニケーション形式の偏りによって

 (もちろん読書も本とのコミュニケーションです),

 たまに人と会話する時に「自分の頭の回転に口がついてこれない」のだ.

 別に自慢ではなく単に相対的なものであって,そして生活習慣に問題があって

 まぁ簡単に言えば「いくら難しいことを日頃つらつら考えてるからといって

 同じ内容が口をついて滔々と出てくるわけではない」.

 むしろ普段喋らなさすぎて日常単語ですら詰まるという事態も幾度かあった.

 (今日実家で母と会話してて「セーター」が出てこなくて愕然とした笑)

 やはり口は体の一部なのだ. 

 同じ「言葉を操る」と言っても,頭(脳)と比べれば口は明らかに身体性のウェイトが大きい.

  以前「思考年齢,作文年齢,会話年齢」というものをふと思い付いたことがあって,

  ここでいう年齢とは主に用いる言葉の種類(趣向・語調・論理性etc.)で判定できるとしたもので,

  例えば最近もっぱら文章では「僕」と自称するけど,

  会話ではタメ口なら「俺」しか使わない,

  この点だけで見れば作文年齢の方が会話年齢よりも高い,とか.

  で,その思い付いた時にあまり深く考えずに数字を入れると,

  思考年齢:35歳 作文年齢:25歳 会話年齢:15歳

  ってなった.

  だからなんだと言われそうだけれども,

  要するに「てめぇ引きこもりすぎなんだよちったぁ陽当たれコラ」

  ということなのだ(いいのかそれで笑).

話を戻すと(どこに戻すかはおいといて),

その「身体性」は今ホントに大事なんじゃないかなと思うのだ.

僕個人だけの話ではなく,という意味で.


秋口にウチダ氏の講演を聴きに奈良まで行ってきた.

90分ほど氏が喋った後に質問タイムが設けられたのだけど,

二番目に質問した最前列の若い(2,30代の)女の人の質問が印象的であった.

 「なぜウチダ先生はそんなに自分の身体(の感覚)に自信が持てるのですか?

 物事の正しさを考える際に,その正しさと自分の感覚がずれてしまった時,

 私はどうしても正しさの方になびいてしまいます」

それに対してウチダ氏は一つの例を挙げられた.

 「学生運動が盛んだった頃に,ある先生が言っていました.

  「あいつは利口だが,あいつとは革命したくない」と.

 自分が危険な状態の時に助けてくれる人間かどうかは,

 その人と出会った瞬間に判断できます.

 というのは,それが本当に「死活問題」だからです」


今の僕らは,「危険な状態」には滅多なことがない限り遭遇しない.

けれどその「平和な世の中」は確実に僕らの身体性を蝕んでいる.

もちろん平和だからこそそれでも大きな問題はないけれど,

普段から抱えている小さな不安が精神を病ませている可能性は否定できない.

そして,その「小さな不安」が「身体性の欠如」によって認識できていない可能性も.

奈良講演での女の人の質問,いや己が不安の表出は,

ウチダ氏の身体性溢れる語り口に誘発されたのではないか.

そのような不安は彼女に限らず,若い人の誰もが抱えているのではないか.

そういった連想があの時,一瞬の内に脳裏をよぎったのは多分嘘ではない.

今の僕が保証します(うそくせぇ笑).


まぁ僕は別にそんな平和ボケに危機感を持ってむにゃむにゃしてる(?)わけではなく,

自分の身の回りの人(特にこれから長いこと付き合っていくだろう会社の人々)が

全体として何か一つの方向に染まっていきそうな時に(よくわからん表現だけども),

それを少し離れた場所で冷静に眺めることができればいいなぁと,

そしてもしその方向に何かしら危険な何かを感じたならば(「何か」ばっかだな笑),

自分と距離の近い人から頬をぺちぺち叩いて目を覚ます役割を担えればいいなぁと,

妄想も甚だしいですがまぁそんなことを考えたりしているわけです.

…まぁこれは言い過ぎかな,

少なくとも本当に自分が好きな(あるいはずっと長いこと一緒に暮らしていくような)人とは,

それこそ頭も体も全力で付き合っていきたいと思いますね.

その下準備ですかね,今は.

いや,この準備は多分一生終わらないんだと思う.

だって本好きやし(笑)


んー今年はどうも「ゆくくる」的なノリになかなかならんね.

話題から外れる楽しみを見出してから一貫性のある文章が書けなくなった(笑)

こういう時は打ち切りが一番!

というわけでまたまた続く…

時間的に次の投稿は明日になるかもしれないですね.

今年も石清水八幡宮に,徒歩で登ってきます.

去年の記事(の該当部分だけ)しっかり読み返して,

悠々と神社の中で新年を迎えるようにしたいと思います.

そして恒例の缶ジュースお汁粉を…じゅるり.


ではではみなさんよいお年を.
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by chee-choff | 2009-12-31 22:44 | 思考