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深爪エリマキトカゲ
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◆ ただのメモ(は) 連ねるうちに 深化する
タイトルが思いつかない記事って困るよね.


と最初に書いて(最初のタイトルは「ただのメモ」),

ずんずん本文を書いているうちにいい塩梅に落ち着く.

なにせ五七五.


で,進化というよりは深化だよなぁと.


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もうすぐウチダ氏ブログの2005年度を読み終える.

プリントアウトしたものを半年分ごとに綴じたファイルは10冊目を数える.

もちろんただ本当に面白いから読んでいるだけなのだけれど,

時々引き寄せられるコメントがある.


…私自身の書き物のほとんど全部は先人からの「受け売り」であり、私が用いている日本語はすべて先人たちが営々として構築したものをお借りしている。
そのような作物に「知的所有権」を請求するようなことは、私にははばかられる。
私が印税などとしていただいているのは、いわば「受け売り」の手間賃、「ダイジェスト」のバイト代である。
だから、私の本やHPのテクストを誰かが切り貼りして本にして、その人の名前で出しても、その方に「受け売りの手間賃」の請求権があって当然だろうと思う(とずっと言っているのだけれど、誰もやってくれない…
2005年01月11日 お気楽物書き稼業


こんなのを読んだら,今こんなことをしている自分がやってしまいたくなるのを止められない.

 と言いつつ,それは日々の雑務を再開した瞬間に忘れ去られる程度の使命感であり, 

  (「~程度の」という表現は決して生まれた思いが軽いことを意味しているのではなく,

  僕の好きな比喩で言えばそれは「特性値(熱い思い)は十分に大きいがそれを上回る

  確率(実現可能性)の小ささのせいで期待値が低く見積もられてしまうことを意味する.)

 だからこそ偶然点された「風前の灯」に灯籠を築くべくこうしてメモをしたためるのである.

(DBあるし)溜まったファイルを卒業後処分しようかどうかと迷っていたけれど,

今回の「飛び火」により,引越し時に大切に梱包しようとの思いを新たにしたのであった.


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とこれはメモしたいことを書く前に書きたくなったことであって…


あるフレーズにおお,と思いポンプを手に取ると意外にプシュプシュと手が動くので,

注入した言葉のガスが抜けないうちにその膨らみをメモ.


「そりゃ誰だって、女として幸せに生きていきたい。でもその実現はリプロダクティヴのヘルスだけでは難しい。ライツ(権利)の視点が必要なのよ。三砂さんにはそこが決定的に欠けている。
 ライツの視点がないということは、社会性に欠けるということです。だから、若いうちに結婚し、出産し、細々と働きながら子育てをして、四十五歳くらいに社会復帰すればいい、そうすれば『近代産業社会にとっても、非常に貢献できることです』なんて言える。夫ひとりの稼ぎでは生活できない現実や、四十五歳で再就職する困難が、彼女にはわからない。」

それより、いまの引用で私が興味を惹かれたのは「細々と」という副詞と、「四十五歳」という名詞の強烈なコノテーション[言葉の裏に隠れた意味]である。
イデオロギーは比喩のレベルに現れる
この文章の書き手は「子育て」する女性には「細々とした」労働だけしか許されず、「四十五歳」の女は、社会的にも(エロス的にも)価値がないという臆断をほぼそのままに受け容れている。
彼女が打ち倒すべき社会矛盾は「そこにある」からである。
2005年01月11日 『オニババ』論争の火中に栗を拾う


イデオロギーという言葉はある程度以上の堅さを持つ文章であればよく目にするが,

なんとなく実感のつかみにくい言葉だと思っていた.

けれど,このフレーズに触れてそれは正解なのだと分かった.

「それ自体はなんとなく実感のつかみにくいもの」であるのがイデオロギーの本質なのだ.

イデオロギーは意識して語られる話形には表出しない.

つまり「自分自身で自分が語る言説のイデオロギーを決定する」ことはできない.

客観性を保とう,中立中性を目指そうという意識をかいくぐって言説に潜在するもの,

その姿を「なんとなく」感知できる部分が,言説に含まれる比喩表現なのだ.


自分の論に実感を伴わせて相手に伝えるために,比喩表現は欠かせない.

その比喩表現は合理性の追求と相容れないものであり,

客観性の高い論理語から想定される意味の一部を抽出し,

その一部に身体性を加えるために使われる.

比喩表現の選択には当然論者の主観が入り込む.

論者が「この比喩ならばみんなに実感を持って伝わるだろう」と考えて選んだ表現,

それこそが論者の身体性をそのまま「体現」(ここで使うには実にふさわしい)している.


それを「この論者にはこういったバイアスがかかっていて…」と批判してしまえば

身体性を排除した論議空間へ引きずり込まれるのであり,

「彼はこういう感覚を持っているのだ」で済ませることで,

身体性を基盤とした言説の「節度」の確保が可能となる.



書いてて自分でどんどん訳がわからなくなってくるのだけれど,

実はその「訳のわからなさ」は体に正直な感覚であり,

「身体性を(脳の専売特許である)言語で表現する」というアクロバシーに因るものなのである.

たぶん.

 と書いていて,ウチダ氏がどういう時に「たぶん。」で文を止めるかが

 なんとなく分かったように思う(実はこれも下に並べた頻出表現のひとつである).

 たぶん(しつこいがこれも同じ).



余談だが,

「アクロバシー」も「ピットフォール(陥穽)」や「前件」と同じくウチダ氏ブログの頻出表現である.

そいえば「前件」って氏のブログを遡ってるとほとんど見かけなくなった…

昔に比べて表現に気を遣ってるのかも.

まぁ,だとすればそれは「哀しきreader friendlinessの割増」なのだろうけど.



余談の余談だが(しつこいな),

といいつつ余談とは関係のない余談なのだが(紛らわしい),

つまり別の余談なのだが(最初からそう言(ry ),

脳が求めるものと体が求めるものは相反するという話に最近興味があって,

その通りだなぁと思う記述に沢山遭遇しているのだけれど,

(養老先生の新書にはこーゆー話よく出てきます)

「脳(=A)と体(=B)が共に求めるもの(=ベン図でいうA∩B)」を追求すれば

なかなか幸せになれるんではという発想があって,

じゃあそんなA∩Bって領域はあるのかな(ない気はするけど)という疑問が今ある.


そんな感じの話が書いてある本知ってる方はぜひ教えて頂きたいデス☆

ただのメモ(は) 連ねるうちに 深化する_d0044938_1851240.jpg



修論の研究資料より嵩がかさむって僕大学で一体何してんでしょうね(笑
by chee-choff | 2009-11-11 16:31 | ウチダ氏