ANA国内線【PR】

ロマン宿りしは

『ダーウィン以来(上)』(スティーブン・ジェイ・グールド)を読了.

>>
適応が進化によって生まれたということをわからせる一番いいお話は、直観からすると奇妙に思われたり変わっていると思われるような種類の生活についてのものである。科学とは「体系化された常識」ではない。科学が最もわれわれを興奮させる側面とは、それがわれわれが直観と呼ぶ古来からの人間中心的な偏見に対して強力な理論を対峙させ、この世界についての見方をまったく変えさせてしまうところにあるのである
p.127
>>

本書で紹介されている理論のどれだけが現代でも正当性を保っているのか分からないが,
グールド氏の透徹した思考様式は科学的な視点を養う格好の見本として未だ色褪せてはいない.
「地学はロマンだ」との名言を残した御仁が確か出身高校の理科教師にいたが,
地学にしろ古生物学にしろ,人間からすればとてつもないスケールのそれらはやはりロマンなのだった.
(思い出した,ハチスカ先生だったかしら…僕は直接教えてもらったことはないが)
やっと気が付きましたよ先生.


さておき,『ダーウィン以来』の上下巻とも古本として手に入れたのだけど(確か別々に買った),
上巻には「全日空スキーメイトカード」なるものが挟まっていた.
青地にニット帽とスキー板を装着したスヌーピーが座り込んでいる絵柄で,
裏には有効期限が1986年3月末とある(おお!)
絵の色使い(というか質感?)が少々古くさくて「昭和だなあ」と思いながら付箋に使って読んでいた.

で,次は下巻だなとさっき手に取ってぱらぱらページをめくろうとしたら,
篆書体っぽい実印が表紙裏に押してあるのを見つけた.
「〜〜蔵書」とあり(読めない),どこかの図書館にあったことをうかがわせる.
かと思うと背表紙の裏にはその実印の横にボールペンで一行の書き込みがある.

「岡山にて旧友に会い,帰途小倉にて」

おそらくこの本は図書館の閉鎖かなにかで一度古書として流通し,
その過程で旅行帰りの某氏の手に渡ったのだろう.
入手の経緯を記してあるところ,本書に少なからぬ思い入れがあったのかもしれない.

ううむ,古書もロマンだなあ.


# by chee-choff | 2012-05-19 18:43 | 読書 | Trackback | Comments(0)

四度目の祝福

かろうじて思い出した一月前の伏線(さいごらへんの「ちょこっと」)の回収記事です.


二度の地元遠征が終了し,一段落しました.
何かといえば,高校時代の友人の結婚式でした.
その二次会の余興で歌うという話がきたので練習をしていた.
歌うというのは「アカペラ」である.

高校の時に「ハモネプに出よう!」と誰かが言い出して結成されたバンドの,
その一人が今回の結婚式の新婦なのであった.
全員が地元大阪にいるわけではないので合わせの練習は数度限り.
しかも人前で歌うとなっては十年ぶりのこと.

まあ,結果だけいえば大成功でした.
ドッキリに彼女が気付いてなかったかどうかはおいといて,
ボロボロと涙を流しながら「ありがとう」と言われてこっちももらい泣き.
(歌ったのは当時のナンバー「宇宙戦艦ヤマト」に新譜「ありがとう」(生物係)の二曲)

僕は新郎との絡みは当時ほとんどなくて(新郎新婦とも僕と同学年の理数科でした),
二人が当時から付き合っていたこと自体今回はじめて知ったというていたらく(?)でしたが,
そんなことどうでもよくて「あしかけ十年」というのはスゴい.
当時の出会いが運命的であったということですね…末永くお幸せに.

+*+*+*

ということでこの出来事が色んな意味で一つの節目になった.
寒かった大阪から帰ってくると一気にこちらは初夏もよう(でも風はまだほのかにひんやり)で,
仕事も大事な時期で転換期を前に慌ただしくなり始め,
そして僕自身は浮いていた心が少し落ち着く(といって「小休止」だけれど).

 そういえば話がそれるけれど地元から帰ってくる新幹線の車内で興味深いことがあった.
 自分の前の席にいた母親のお子さんが何かの拍子に突然泣き始めたのだけど,
 いつも読書中なら「うるさいな…」と思うところ,なぜかその泣き声に聞き入ってしまった.
 意味を聞き取るというより単純に物質的な,息遣いとかそういうものを聞いていたのだけど,
 赤ん坊は息を吐く(=声を上げる)ことに夢中で息を吸うことを全く意識していないように感じた.
 (吐く息がなくなったから吸う,あるいはしゃっくりのように息を吸っていた)
 生理学用語を使えば「不随意的に息を吸い,随意的に息を吐く」といったところだろうか.
 この呼吸のアンバランスは「母親に訴えかけることの危急さ」によるのかもしれないが,
 もしかすると平常時においても赤ん坊はそれがデフォルトなのかもしれないし,
 あるいは赤ん坊に限らず人は「吐くより吸う方が意識的」なのかもしれない.
 コミュニケーションを形成する「発話」は息を吐くことで成され,
 息を吸うこと(これから意味を読み取ることも可能ではある)は補助的になる.
 また(特に子どもやお年寄りが)喉に異物を詰まらせるのは息を吸う時がほとんどだろう,
 とか連想できることは他にいろいろありそうな気がする.

で話を戻しまして…
「浮いている」時の自分はあまり好きではないのだけれど,
それを好きでないという自分は例えば今この記事を書いている自分に近い存在であって,
つまり「浮いている」自分をその場で見ている自分は浮いていなかったということ.

といったことを実感するには一度「浮上」しなければならないわけで,
その意味でこのふた月ほどはなかなか良い経験になりました.
自分とはやはり他者の他者であり他者なしに把握することはできず,
強度の差ではなく質の差として,本と人は違うわけです.

なんだかわけのわからないことを相変わらず呟いてますが,
簡単に言いますと「自分の立ち位置がわかってきた」ような気がします(飛躍).
何(誰)にとって,またはどういう意味での「(適切な)立ち位置」かというのは,
まだ言葉にできないし,あるいは「言えば消える」ものかもしれない.

もっともっと簡単に言いますと(という言い方が既に胡散臭い),
在りたい状態がわかってきて,それに向かってするべきことが分かってきて,
その「するべきこと」が手段であるとともに目的でもあるような在り方が分かってきて,
まあそんなこんなでわりと好き勝手にやらせてもらいましょう,と.

うん,別に何も変わっちゃいない.
つまり節目というのは当の出来事が一段落した後に意識するものであり,
しかも意識如何で節目かどうかが決まるもので,
人間どこかで一度落ち着かないと「変わらない」のだ.

あれ,言ったそばから矛盾してる?

# by chee-choff | 2012-05-14 14:02 | 思考 | Trackback | Comments(0)

超遅出タカシ号/四季に対応する頭のなかの何か

今週末も活動的になる予定.
今月の交通費だけで去年一年分に匹敵するんでは…

+*+*+*

で,来週の月火は変則出勤.
もともとシフトのある部署ではなかったのだけど,
いつの間にか部署はそのままで「シフトで回してる部門」に部署の肩書きが変わって,
それでもシフトとは縁遠くて今も縁遠いままで,
つまり今回は「イベント対応」みたいな感じ.
もちろん楽しいそれではない.

シフト勤務では7時出勤の「早出」や13時出勤の「遅出」があるのだけど,
この2日は15時出勤の「超遅出」.
そうなると定時が時計半周分ずれて,なんと23:45.
残業が始まるとともに日が変わる寸法ですね.

通勤5分の身で文句垂れるわけにもいかないが,
2日だけというのが生活リズムを狂わせるには十分でうぬぬな感じ.
就寝と起床の時間を据え置きでやりくりできればいいのだけど.
 「お時間据え置き!」…じゃないか,「お値段据え置き!」
 巷で噂のJPNTKTですね.
 …と即席で作ったんですが,もう誰かジャパネットタカタをこう呼んでる人いたりして,
 と思って検索したら一番上でゆっくりに出会ってしまった.
 なぜ(笑)

あ,あと今日事務室で隣席の先輩(♀)に「"壊し屋たかし"(「ののちゃん」(朝日朝刊連載4コマ漫画)主人公ののちゃんのお父さん(下手の横"DIY"好き)の異名)の活躍を朝見るたび先輩を思い出します」って笑顔で言ったら,「月のない夜は背中に気を付けなさいね☆」って笑顔で返されたので残業したら独りで帰れなくなっちゃいました(笑)
という一文の途中どこかから(どこでしょう?)ウソ入ってます,とすかさずフォロー.
「いいキャラクタですね」と言いたかっただけなのだが表現が遠回し過ぎたか..

あと「パーマが1週間でとれちゃう」とお嘆きの別の先輩(♀)に
(しかも最近かけて"とれたてホヤホヤ"らしいので),
頭をじっと見つめながら「諸行無常ですね」と言ってみたい欲求に駆られているのだけど,
幾度となく「学習」した身としてやめといた方がいいような気はしている.
だがここは遂行的KYの名に賭けて…ふふふ.

+*+*+*

 「うそからでたまこと」と表現される通り,言葉はやはり「呪い」である.
 これは言葉の力を信じていようが信じまいが同じで,信じていれば自覚はできるというだけの差.
 自分の言葉であっても,それを受け取る自分の状態が変われば影響も変わる.
 流れそのものを自分でつくれたとしても,流れに乗る行為は受動的でしかありえない気がする.

脈絡はないが,戒めの言葉.
はてさて果して.
這って去って裸足で.
ホフク前進.
次の塹壕は何処?


またタイトルが浮いちゃったな…

# by chee-choff | 2012-05-11 22:00 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

技と道具の分水嶺

久しぶりにポメラで書いたらコラムみたいになった.
起承転結,ではないけれど,
4行でひとまとめにするとリズムがついて良い.
意識し過ぎるとダメなのだけどね(後半はちと失速ぎみ).

+*+*+*


技と道具の分水嶺

2012/05/06 14:00
便利な世の中になった。
その一方で、体力や免疫力の低下が指摘されている。
極端に言えば、今僕らは縄文世界から電脳世界への過程にいる。
縄文は未開過ぎるが電脳だと身体の居場所がない。

ということで利便性とどこかで折り合いをつけたい。
市場は「おせっかいの先回り便利」を押しつけてくる。
言いなりになれば電脳世界へ「猫まっしぐら」だ。
猫はカルカン(古い?)に飛びつく脚力が育つからまだいい。

 僕はコーヒー豆を小分けに冷凍庫に保存している。
 だから豆を挽く前に軽く炙って解凍する。
 その時フライパンからミルに豆を移すのが少々不都合で、
 添えた手が熱かったり豆を数粒落とすのが日常であった。

 この場合漏斗を買えば不都合は瞬時に解決する。
 気を使わずかつ豆を落とすことなくミルに移せる。
 だが面倒臭さが先に立ってぐずぐずしているうち、
 不都合が習慣化し、その後に豆を落とさなくなった。

といった顛末を迎える事が日常には割と多いのではないか。
便利さを求めて買ったモノが余分だったと後で気付く。
最初は不都合に思われたが慣れれば案外そうでもない。
そう、市場に溢れる「便利さ」は自分専用ではないのだ。


生活に何らかの不都合があり、それを解消したいと思う。
その思いは自然「今の自分のままで」を前提してしまう。
それは利便性の獲得が購買行動に因っており、
購買行動の前件が「消費主体の不変性」にあるからだ。

これは消費礼賛社会の「定型」と言える。
上で挙げた自分の例はこれに対置させるためのもので、
つまり「不都合を購買行動で解消しない」、すなわち
「不都合に自分を合わせる」解決方法である。

「不都合に自分を合わせる」には2種類あって、
「自分が変化して不都合を解消する」場合と、
「不都合に慣れて不都合という認識を捨てる」場合。
言葉で分けてみたものの、両者の境界は曖昧ではある。

もちろんこの両者が時間をかけても叶わないこともある。
その時は「道具によって解消すべき不都合」とみなして、
適切な購買活動を行えばよい。
この判断を適切にするのは「時間」である。


「無時間モデル」の横溢する脳化社会への馴致拒否、
あるいはブリコルールの実践と言ってもよい。
ブリコルールとは「ありものでなんとかする」ことで、
ここでは「ありもの」に自分の身体を含めてよいと思う。

自分の例では「変な面倒臭さ」が「技」を選択させた。
(これを変と呼ぶのは、ふつうはさっさと道具を使って
 不都合を解消する方が「面倒臭くない」と思われるため)
この可否はおいといて、駆動源は何でもいいのだと思う。

ここに「ムダなものを買わない知恵」が提示されている。
日常に不都合を感じた時、解消に向けて即断即決しない。
まずはその不都合を「塩漬けする」時間を設ける。
浅漬けでも古漬けでも、美味しければしめたもの。

…話がズレた、「身体に染み込ませる」時間を作るのだ。
不都合が不都合のまま身に染みれば道具を買えばよい。
逆に慣れてしまえば、それは不都合ではなかったのだ。
気がつけば、最初に不都合を感じた瞬間から何かが変わった。
2012/05/06 14:51

# by chee-choff | 2012-05-07 23:05 | 思考 | Trackback | Comments(0)

『身体の言い分』池上六朗・内田樹

掘り出してみた.
書いたのは昔の自分なので恥ずかしげもなく.

2010/07/31 23:36
本書も名言がたくさん。
おかげで付箋だらけ。
その中でしっかと形に残しておきたいものを抜粋。

 自分の中で複数の声(=ヴォイス)を出せる人はもちろん相手によっても声を変えることができるわけですね。声も変わるし、態度も変わる。トーンも変わるし、身振りも変わる。場合によっては、言っている内容までも変わる。前に言ったのとは正反対のことを相手が変わると平気で言える。多チャンネルの人の場合は、それが深刻な矛盾にはならないんですね。そういういろんなヴォイスの使い分けができる人の特徴は、メッセージのコンテンツを首尾一貫させることよりも、コミュニケーションの回路を成り立たせることのほうが優先順位が高い、とうことですね。コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。「互いの声が届く」ということです。でも、こういうことって、なかなか理解してくれる人がいないんですよ。
 むしろそれとは反対に、どんな場合でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいことであるという考え方のほうが、今ではコミュニケーションについては支配的なイデオロギーですよね。(…)
 これはね、非常によくないと思うんです。いいことなんか何もないですよ。ありとあらゆる場面で「自分らしさ」を貫徹するということは、「場の特殊性」というファクターをコミュニケーションに際して勘定に入れないということですからね。自分が向き合っている相手がどういうふうに自分と違う立ち位置からこの場を共有しているのか、という自他の「ずれ」を一切考慮しないで、ひたすら「自分らしさ」なるものを押し出してゆくというのは、意図的に自分のコミュニケーション感受性を殺すことに等しいわけですよね
(第1章 今の自分を肯定する p.23-24)
>こういう目で周りの人を見ると、また面白いと思う。例えば、八方美人の人の良さや、筋の通った人の鈍感さみたいなものが見えてくるかもしれない。

 よく「哲学は単純な現実をややこしく表現したものだ」と思っている人がいますけれど、逆なんですよね。現実は哲学で語り切るにはあまりに巨大で複雑なんです。だから「わかりにくい哲学」というのがありますけれど、あれは現実の複雑さになんとかついていこうとして息も絶え絶えになったものなんです。ちゃんとした哲学がわかりにくいのは、それがぼくたちの生きている当たり前の現実にできるだけ近づこうとしているからなんです。
 だから現実を深く生きている人というのは、必ずある種の哲学者になってしまうんです
(第2章 解釈するのは頭じゃない p.94)
>深く染み入る言葉であります。

 体を治すと言っても、どんな状態をめざしているかが患者さん本人にわかっていない場合が多いんです。どうなりたいかがあやふやなんだから、治すとか治さないとか言うのはあまり意味がないな、と思うんですよね。本当に自分が快適に生きようと思ったら、自分で快適だと思うことをやっていけばいい。
(第5章 快適に生きるには p.189)
>なるほどと思った。しんどい時って「元気になりたい」とは切に願うのだけれど、具体的にどういう状態になりたいかは全然想像しないもの。今の状態を脱したいというだけで、その先が何も見えていない。それで当たり前すぎて今回のフレーズを読んではっとしたのだけれど、案外「こういう状態になりたい」と詳細に想像することで回復スピードが早くなったり、回復した時の気持ちよさを実感できたりするのかもしれない。


 「頭で感じる快不快」と「体で感じる快不快」と両方ありますよね。人間は幻想で生きている生物だから、この二種類の快不快がうまく識別できない人が多い。どこが違うかというと、人工甘味料と自然の甘みの違いみたいなものだと思うんですけれど、幻想的な快感、たとえば政治的イデオロギーや宗教的陶酔がもたらす快感というのは「しびれる」んです。がつんと脳に来る。それに対して、自然な快感、生物としての生存戦略にうまく適合した選択をした時にもたらされる快感というのは、「ほっこり」しているんです。じわじわっと腹から温まるような感じで。
(第6章 現実から出発しよう p.217)
>たぶんこの区別はとっても大事なことだと思う。言葉で言われて分からなくても、違いがあること、それが「しびれる」と「ほっこり」であることは覚えておきたい。僕は前者はよくわかる(ライブとかプレーヤで音楽聴いてる時にもあるし、あと何か閃いたり繋がったりした時とかね)が、後者は…なんとなくしか分からない。もっと分かりたいな、と少し思う(ぽっ)
2010/08/01 00:03

# by chee-choff | 2012-05-06 21:17 | 読書 | Trackback | Comments(0)

移行期的混乱







何が移行したのか? そして何が混乱したのか?

# by chee-choff | 2012-05-03 23:48 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

ノマドのお仕事

今夕の朝日の論壇ページに小田嶋隆氏が寄稿していた.
ウチダ氏の登場頻度が高いのもそうだけど,最近の朝日は路線が変わったのかしら?
とはいえ内容は大幅添削でも入ったか面白くはなくて(まだまだ時間が必要なのかもしれない),
ア・ピース・オブ・警句の最新号の方がウィットも効いてて百倍面白い.
(日経ビジネスオンラインに登録しないと見れないです)

最近定着したらしい「ノマド・ワーカー」という言葉に対して,
「遊牧民」の“遊”の一文字が現実から遊離した(ここにも“遊”が…)魅力を醸している,
という正確な指摘が凄いし,
実情として「遊牧民」ではなく「遊牧民の家畜」の位置にいる人も少なくない,
という比喩がもう比喩を超えた強度を備えていて恐ろしい.

「遊牧民」のもともとの定義が逐一実情に沿うているのが頼もしくて,
(蓄積をそもそもしない遊牧民と,貧乏デフォルトのノマド・ワーカーの対応とか)
これぞ思考の妙だなあと羨望のまなざし.

ツイッターを見てるとけっこう苦労してはるみたいですが,こっそり応援してます頑張って下さい先生.


p.s.「日本語英語」も発想の源.

 No mad, "NO" work.

# by chee-choff | 2012-05-01 22:38 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

再会にして際会

土日月,と今日まで地元に帰ってました.
用向きはいろいろあったんですが,主に元高の人々に会いに.
もう,みんな顔がそのまんまで,これを懐かしいと言うのか,まあ高校ならそんなもんでしょうか.

うーん,そして中身は変わったのかそのまんまなのか,と言えば,
正直こっちも「そのまんま」という印象でした.
理数科のメンツは大体みんな世渡り上手なので元々スれて(「世間擦れ」の意)いたんですが,
さらに角が取れてまんまるつるぴか☆

というのは嘘で,みんな苦労してるみたいですね.
そんな彼らを見て「がんばれ!」とエールを贈りたくもなるんですが,
その後に続く言葉が…ここは本音になっちゃうので伏せますか(笑)

本音と言えば850氏&ぽ氏と飲んだ日曜の夜では僕はほんとうに本音ばっかり呟いていて,
明らかなウソは「社員寮の最寄りバス停は毎時1本」とかいう瑣末なものだけ.
日中は2〜3本あるし,路線も3種類くらいあってバスの便は非常によいです.
「田舎だしねー」と言えば自動的に「バスが一時間に一本でね」と口からこぼれてしまう時は
僕が地元にいる時ならではの「スキだらけ状態」なのであって,
スキだらけだと現実的な頭が回ってないのでしょうもないウソをついてしまうことになる.
まあ,そこはご勘弁下さい…後に引きそうなウソがぽろっと出た場合はその場で訂正しますので.

で,会社から離れてこそ会社についての本音が語れるということで
日曜の夜は好き勝手言い過ぎて2氏も時に理解に苦しまれたようだけど,
その事実がその場で語られた本音を本音たらしめるという「メタ視点」が理解のヒントです(何の?)

まあ分かりやすい話をすれば,
帰省中も風邪が治らず人といればぽわぽわし一人でいれば憂鬱な状態だったのだけど,
社会の趨勢に抗って脳を身体に従属させてる僕が正直に語る話というのは,
「ぜんぜん客観的でないし計画的でもないし共感を呼ばない」代物だということ.
むしろ共感できたら…あ,ここも伏せよう(笑)


さて,今回の帰省はなかなかいい刺激になったのだけど,
戻ってきてから溜まった家事をしてる間に身体の調子も良くなってきて,
(これは家事のおかげでもあり,下駄のおかげかもしれない)
脳みそ君も身体につられてくるくる回り始めたようで,
いくつか気付きがあったのでメモしておきましょう.
まあ自分の話なんですけど…

まずひとつは,自分の行動原理は「現状肯定」の一言で表せそうだなということ.
一人でいる時は「一人って楽だなあ,幸せだなあ」と思い,
でもみんなでわいわいやってる時は「一人だと寂しいなあ」と思うのだけど,
これは後者が前者を否定しているように見えるけれどそうではなく,
後者は「みんなでわいわいやっている“その時”」を肯定しているのだ.
だから落ち着いた時に両者を並べれば矛盾しているように見えて,
どちらも「その思いを抱いた場面」を思い浮かべればしっくりくる.
これはある程度身体に生活(の中での思考)を委ねてこそ気付けることではないのかな,とか.
だから「僕が本当に誰かと一緒にいたいと切実に思うだろう状況」というのも,
ここから類推することができる.
ま,それを今採用してはいるけれど成果が出てないので詳細は控えますが.

「現状肯定」のいちばん根っこには「じぶんのからだの存在」がある.
シェイプアップとか筋トレとか「身体改造」とか言ったりするけれど
それは身体を所有物とみなしてこその発想で,
実は身体を所有していると思っている脳は身体の一部で,
その身体は「所与のもの」であって発生に何ら主体性は関与していない.
起源と現在の効果(意味)の同一視は「そもそも論」が時に暴走する考え方でもあるのだけれど
(それは進化論の教えるところだ),
それは思考のゴールにした時に暴走と見なされることがあるのであって,
思考のスタートとするにはむしろ王道と言える.

つまり何が言いたいかといえば,
過去は単に過ぎ去ったものではないよ,と(かなり飛躍したな).
昨日の朝日書評に鶴見俊輔氏のこんな言葉が引いてあった.
現在の中に未来の種子として生きつづけている過去を、ほりおこすこと
僕はここに,鶴見氏とハシモト氏の深いところでの繋がりを感じる.


あ,タイトルの話書いてない…まいっか.
また当人と会った時にその時の驚きを伝えることにしましょう.

# by chee-choff | 2012-04-30 23:38 | 思考 | Trackback | Comments(0)

すがわらのダフンダフン

今週末は久しぶりにかなり活動的になる予定.
そして間の悪すぎることに昨日から風邪をひく.

野口晴哉氏の本をこの前読み終えたのだけど,
その中に「風邪のとき身体の左右の体温が違う」という話があってびっくりして,
(「左右の顔の大きさが違う」とか書いていた)

普段の入浴温度+3℃くらいで脚湯または足湯をすればよくて,
(呼吸器系の風邪なら脚湯,消化器系の風邪なら足湯らしい.そんな違いもあるのね)
まず両足を6分つけると左右の足で赤みのさし方が違うから(!),
赤みが弱い方の足をもう2分つけてしっかり両足を拭いてからさっさと寝る.

と寝汗をぐっしょりかいて一日で風邪が治ると書いてあって昨日早速試したのだけど,
左右の足の赤さの違いが微妙で確証の持てぬまま左足を2分追加したのだけど,
これ逆の足やっちゃうと余計バランス崩れちゃうんじゃないかなというもっともな不安に対する
回答は本には書いてなくてネットで調べりゃ出てくるんだろうけど面倒だったので寝た.

ら確かに久しぶりに寝汗をかいたのだけど,
(ここ最近は風邪時に水分大量摂取しても汗ではなく下へ抜けていた)
たっぷり汗を出す前に一度着替えてしまったので十全な効果が得られなかったもよう.
昨日はひきはじめだったのが今日は治りかけみたいな感じで,
足湯のおかげかもしれないしまったくの気のせいかもしれない.

まああまりテキトーなことを書くもんでもないんですが,
この書き散しが後悔を呼んで次回の風邪引き時に再実験してまともなレポートが提出されることを
ここに祈念するものであります.
疲れているのか浮き足立っているのか,
身体の落ち着き具合はその両者の均衡の再現になっていて,
でも脳にとってはその両者は正負にきっちり分けられることはなくてぐちゃぐちゃしていたり.

関係ないけど朝日夕刊連載小説の主車行(しゅじんこう)の隣車(りんじん)のザッパって,
「雑把」じゃないのかな.
ザッパに兄弟がいたら大雑把と小雑把,とか.


最近交通事故多いですね…

ハイネケン.

# by chee-choff | 2012-04-27 23:34 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

そして世界は動き出す

 動いている世界の上に自分がいるのではない
 もともとある地に自分が加わったのではない

 自分が生まれたと同時に世界が始まった
 きっと自分が死ぬと同時に世界は終わる

 だが自分の見える聞こえるものが自分の全てはなく
 自分の想像もつかないものが自分の一部を構成する

 想像外のものは内にも外にもあり
 想像及ばぬ点で共通である以上に

 自分を形作る点で共通である


 自分が存在し初めることを起点に世界の全てが変わった
 それは実感できるもので実感できるのは自分しかいない

 起点はここにあり
 帰点はここにある

 視点はここにあり
 詩点はここにある


 点は線になるためにあり
 線は面になるためにあり
 面は間になるためにあり
 間は時になるためにあり

 時は間に分かたれ
 間は面に分かたれ
 面は線に分かたれ
 線は点に分かたれ

 点は時を構成し
 時は点を包含し
 時は点を構成し
 点は時を包含す

 ただ意識のみが 点と時を往還する

# by chee-choff | 2012-04-22 19:33 | ことばあそび | Trackback | Comments(0)

Not wanna do, but wanna be/モダンウゴウゴ

『キッチン』(吉本ばなな)を読了.

今の自分に自然と溶け込む本だった.
紹介してくれたM氏に感謝.
おりにふれて他の著書も借りてこうと思います☆

最後の短編「ムーンライト・シャドウ」を読む前に偶然聴いたこの曲が,
頭の底をずっと流れ続けていた.
 【猫村いろは】ヨルに帰る花【オリジナル曲】
喪失の.

+*+*+*

最近言葉を綴る意欲が減退している.
読んだ分吐き出したいと,思う時もあったが,
今は思わない時,らしい.
どうも書こうとして前に同じことを書いた予感がすると書きたくなくなるようで,
別に無理に書く必要はないのでそれはそれでいいのだが,
そこから「自分は優しい人ではない」と以前思ったことを思い出した.

「やさしい人だね」と言われる時はたいていホめられているわけではないニュアンスで,
僕は何度もそのニュアンス(つまり「優柔不断」とか「意志薄弱」)で言われたことはあって,
でも上で言ったのはその「やさしさ」ではなくて,
良い意味での,人と長く付き合う上で大切な「優しさ」がない.
それはその「優しさ」を(さりげなくしかし確固と)持つ人と出くわすといやおうなく感じるもので,
でも昔の自分にそれはきっとあったもので意識して時間をかければ取り戻せなくはないと思うものの,
「でも今はいいや」とバッサリ切り捨ててしまえる自分はやっぱり「優しさ」がない.
そうやってどこかに追い込もうとしているのかもしれない.

 ああ…書く気がないと言いながら書き始めるとズバる言葉がどんどん出てきて困るのだけど,
 (ズバリ言う,本質を衝くという意味「ズバる」と書いてみました)
 そしてそれをボカすと途端にズバらなくなって(それを面白いと思う僕以外は)困るのだけど,
その「追い込み先」に至る過程を自分は良しとしていて,
それは「のっとわなどぅばっとわなびー」な自分の価値観に則った流れで,
それを「追い込まれた」と思った時にはそこからの脱出が切実となり駆動力となって
自分だけでなく人をも動かす力となりうると期待するいっぽう,
「追い込まれた」が「来るべくして来た」になってしまうと凄いが怖い.
どちらへ転んでも今の自分とは違う存在になっているという想定なのでどちらがよいとも言えず,
成り行き任せと言いつつ任せているのが成り行きではない何者かという混沌.

自分がどういう場面にいるかで同じ日の中でも「わなびー」の内容ががらりと変わっているというのは,
ある意味狂気かもしれないですね.
僕はそれを素直と呼びたいですが.

+*+*+*

「ウゴウゴ文学賞」で検索したらModern Livingというサイトに行き着いた.
(という一文の因果関係は「経験的事実」以外に何もありません)
とってもシュールで久しぶりの種類の感激を味わったのだけど,
たしかにモダンだと思って,でもそれはきっと「モダン・タイムス」のモダンなのだと思う(つまり?).
全部は見てないけど,僕は87の射的みたいなのが好きです.
あと94の隊列行進の「有無を言わさぬ」感とか…COPPELIONの「死の行軍」を連想した.
紹介がてらにスクリーンショットを載せておきます.


# by chee-choff | 2012-04-22 18:55 | 思考 | Trackback | Comments(0)

光は可視光のみにあらず

仕事環境が安定していなくて,
というのは以前にもまして「境界人」ちっくになっていて,
人からは所属意識が薄くて気楽にやってると思われてそうだけど,
本人からすると地に足着いてない感じがして心許ない面はある.
その状況を愛さねばならないというか,
愛せるような人になりたいという未だ願望レベルであって,
(このテの話に熟練なんてあるのだろうか?)
なぜそう思うかといえば要するに「血」ですね(笑)
と言って血液型と一緒に思われるのは心外だが案外その通りかもしれない.
嘘だけど.

なんにせよ状況が状況なのでただ呑まれるばかりではある.
この自覚がなくなると楽だけど大変なので,大変だけど楽に流れないよう頑張る.
…?
つまりどう足掻いても大変.


まあまあ,仕事の話はぼかせばいくらでも書けるのでこの辺にしておいて.
最初に書こうと思っていた「ある人」について.

とても分かりやすくて顔に全てが出ていて,
でもその「出てるもの」を鏡で映し返すと不機嫌になって,
恐らく僕が悪いと思われているのだろうけれどそれは仕方がないとは思っていて,
きっと「出てるもの」を取りなしてくれる優しい人が今まではその人のまわりにいたのであって,
その優しさは現状維持にしかはたらかないという非社会的なことを考える僕が確かに悪いが,
僕が鏡であることに気付いた時のその人の「変わり方」に勝手に可能性を感じていて,
その秘めたポテンシャルを常識に埋もれさせるのは勿体ないという妄想甚だしい余計なお世話.

まわりから白く浮き出る人も黒く沈む人も僕には同じように見えて,
それは「同類の匂い」をそこに感じるからなのだけど,
別に仲間意識を持つとか友好を深めたいと思うわけではなく(たまにそういう例もある),
ひとつの「同じ」からどんな「違う」が出てくるかな,
という興味に他ならない.

 「同じ」からはじまる「違う」があり,
 「違う」からはじまる「同じ」があるが,
 「野ウサギ」でいるためには両者とも漠然としていた方がよい.
 (実は昨日『野ウサギの走り』(中沢新一)を読み始めました)

まあ,迷惑かけない程度に,仲良くやりたいですね.


ホント,何言ってるか全然分かんないねこれ(笑)
きっと来週あたりに読み返して「で,何が言いたいの?」と思うに違いない.
ま,それ狙って書いてるんで当然なんですが.

というこれはメモというか迷惑投稿.
どうも失礼しました.

# by chee-choff | 2012-04-18 22:44 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

脱⑨

院生の時に買った『現代思想入門』(仲正昌樹ほか)を最近読み始めていて,
「なんだかすげーなー」と思って,
「もう色々分かってんじゃないの?」と思って,
「あとはじっさいどうするかだよな」と思って,
つまり現代思想と(一般人の)日常とを架橋する作業が急務だなと思って,

例えば京橋(大阪)の風月で

 「すみませ〜ん、ポスト・モダン焼き一つ。」

とか頼んでみたり,

(…)この「生成変化」は決してマイノリティがマジョリティになったり、非権力者が権力者に成り代わることではない。フーコーのパノプティコンの監視塔に誰が入ってもかまわないように、権力闘争や権力奪取は権力構造そのものを変えはしない。肝心なのは、この権力構造自体を脱⑨させることなのだ。(p.154)

といった読み替えを一つひとつ積み重ねていくことがこれから必要なのだと思う.

つまり,間違っても「あたいったらサイキョーね!」などと口走らないことである.

….

春ですね.

「春ですよ〜」

….

しょうがない.
「脱構築祭り」でもやるか(かわ嘘)

# by chee-choff | 2012-04-15 23:17 | ことばあそび | Trackback | Comments(0)

「なんとでもいえる」のよしあし

ウチダ氏は自分の書いた『ためらいの倫理学』について
「同業者から見れば禁じ手」と自分で昔ブログにコメントしていたが,
たしかにその話の展開方法は万能包丁であれ諸刃なのだと思った.

のはウチダ氏ブログが最近あげた追手門大学の講演録を読んだからなのだが(長いですよ),
この途中のある箇所を読んで久しぶりに,初めてウチダ氏著作を読んだ時の印象を思い出した.
それはたしか学部生の頃実家で見つけた『おじさん的思考』で,
なんか構造(←と今でこそ言えるのだが)を語る語り口が今までになく独特やなあと,
でも「気分屋」というか記事の当たり外れが大きくて,
"ズバッと本質ひと突き"と"ごりごりの牽強付会"の差が極端だなと思って,
話に「強度ある実感」が伴うか「ひたすら置いてけぼり」を感じるかの差は
同じ構造について語っていても「はいり」の掴み如何に依っているのだと気付いた.

ウチダ氏はよく「当たり前」「常識」という言葉を使うが,
それは「古き(?)良き(??)日本の価値観」に照らし合わせて大体その通りだと思うのだが,
同じようにその言葉を使って語り始められた時,
読み手のこちらがその「当たり前」に全く実感が伴わなければどうなるか?
いくらその先で面白い話が展開されても「うーん?」と入り込めずにわだかまりを抱えたまま
読み終えることになる.
(書き手と読み手が同一人物でない以上当然起こることではある,
 ウチダ氏は「自分が読んでみたいと思ったことを書く」のだからなおさら)

きっと大学人としての枷がとれて言いたいことをそれなりにそのまま言えるようになって,
つまりウチダ氏はいつも「その場の勢いであることないことしゃべる」人なので
その「勢いの殺し方が緩んだ」ことで当たり外れが大きくなったのだと思う.

氏の著作はほとんど面白く読んでいるし,その頭の回り方や身体との折り合いの付け方(お伺いの立て方)も
間違いなく尊敬しているし「私淑」してるとここに何度も書いているけれど,
当たり前だけどだからといって氏の言うことを無思考(あるいは無感覚)で全て真に受けることはなくて,
「うさんくさけりゃ(←身体反応)まずはまゆつば(←脳の試行錯誤)」も氏の教えるところであるので,
変だと思ったら素直に自分の感覚を信じてその変を形にしておく.
もちろん自分の早とちりもある(てか殆どそれだろう)ので今後ひっくり返ることも大いにありうる.

というわかりにくいこれはメモです.
具体的にどこがどの辺,というと…
上のリンクの文章の中に「松本内閣参与のオフレコ発言」についての話があって,
そこで「『最後の言葉はオフレコだよ』と松本氏の指す言葉は実は『頑張れよ』なのである」
という「まくら」から独裁者の不可解な振る舞いの実効性について語られていくのだけれど,
この話は僕は新聞で読んだだけでその前後の発言の詳細だとか状況は詳しくは知らないのだけど,
「それはへんじゃないか?」と素直に思った.
「最後の言葉」の前には「意味のある」が省略されていると思うのが普通だろう.
独裁者が戦略として不可解な振る舞いをすることそのものは理解できるのだが,
その例として松本氏の発言はどうもしっくりこない.

…書き出してみるとあまり面白くないな.
途中から頭で書いちゃったかしら?

+*+*+*

「諸刃」とは「愛情の対蹠点は無反応」のこと,だろうか.
無反応を恐れていては愛情は得られない.
(と書いてから気付いてしまったことは書かない.「千里の径庭」ですね)

あれ,諸刃って,矛盾の体現(ありうべきひとつの形)では?
つまり片刃は脳の産物なわけだ.

+*+*+*

最近ベースラインにハマっています.
という「これ」は布石.
およそ一月後に回収予定.
ふふふ

【original】 ナイトスプレッド 【雪歌ユフ】
【original】 月の歌 【雪歌ユフ】

tom atomさん素敵☆

# by chee-choff | 2012-04-13 22:26 | ウチダ氏 | Trackback | Comments(0)

安心毛布と独裁者

スヌーピーと仲間たちの心と時代―だれもが自分の星をもっている
広淵 升彦
4062078635


黄色にひかれて「犬」にひかれ,装幀にひかれてあまり中を見ずに買った.
奥付(「おくつけ」と読んでたけど「おくづき」なんですね)だけは手に取る本全部で確認はしていて,
「テレビの人かぁ」とは思って,読んでみたらしごくテレビ的で,
「装幀通り」だけでよかったのに想定通りでもあったというオチ.
しかし思い返せばコーンフレークの表紙絵と小学校時の文房具でしか見たことなかったので,
僕みたいに原作を知らない人にとっては良い紹介本かと思います.

「心の相談室」の猛烈少女ルーシー・ヴァンペルトとか,
3メートル以上高く飛ぶと鼻血を出して失速する小鳥ウッドストックとか,
みなさん愛らしいキャラクタですね.
スケッチ風の描線で簡素に描かれてこそ,無表情に近い表情にも深みというか
こちらの受け取り方に幅が出てくるのだなとあらためて思って,
はて何か懐かしいなと思ったら「マザー2」が浮かんだ.
まあそれはよくて.

安心毛布(security blanket)とはルーシーの弟ライナスが肌身離さず持っているもので,
天才少年もこれがないと手が震えて夜も眠れない(って麻薬かいな).
なるほど役割としてはもっともで,
リトル・アリョーヒン(@『猫を抱いて象と泳ぐ』)の祖母でいう布巾のような,
(あ,というか小森霧(@絶望先生)がまんまやな)
高校時代の自分でいうカラータオルのようなものだろう.
 たしか卒業文集のクラス別写真の一言コメントのお題が「これがあれば生きていける」で,
 「バスケ」と書いたバスケ一筋のT雅氏の隣の僕は「カラータオル」と書いて,
 100円ショップで買えるそれを確かに自分は年中肌身離さず持っていて
 (アルバムを見ると集合写真で頭にタオルを巻いている頻度が異常に高い),
 夏の授業日に忘れたと気付いた時にゃ絶望で頭がくらくらしたものだった.
 何せ微動だにせずとも汗が噴き出る汗かきだった…って今も大して変わってなくて,
 そろそろ社食でみそ汁を飲むのが苦痛になり始める季節だ.
 夏にあれ飲むと飲んだ分は全部汗で出てるんじゃないかってくらい…いや冗談でなく.
この安心毛布という名前がなんだかステキだなあと思って,
思ったそばから別のところでこの言葉を見かけてびっくりしたのだった.

というのは今日から週末用に読み始めた『キッチン』(吉本ばなな)の表題作でのこと.
「ライナスの安心毛布」と書くだけで一般に通じるんですね.
なるほど僕はばなな氏の文章が好きな気がする(唐突)
別の文脈もあるのだけど…まあ,それも楽しみながら続きを読んでいきましょう.
もちろん秘密です☆

あ,ひとつ気に入ったセリフがあって,たしかこんな感じの.
「本当に一人立ちしたいのなら何かを育ててみるといい」
その育てる対象は頭の中のことものではなく一言でいえば「自然のもの」で,
今の自分には全く欠けているのであった.
これは目を背けず,ありのまま「欠如」と認識しておきましょう.
きっと(←どころじゃないよ)身体性とも深く関わりのあることだから.

+*+*+*

いっしょに並べる言葉でもなかったんですが,
いつも通り過去のウチダ氏ブログを読み返していてタイムリーな話を見つけたので.

>>
私はまえにこう書いたことがある。
「独裁的な権力者は、理不尽な暴政を行うほど呪術的な威信を帯びる。殷の紂王からスターリンに至るまで、独裁者はその理不尽さゆえに畏怖され、憎まれる。もっとも独裁的な権力者とは、定義上、その没落を彼以外の全員が切望するような権力者のことである。」(『現代思想のパフォーマンス』)
独裁者の権威は、その「理不尽」さ、つまり「彼が次に何をするか分からない」ことを淵源とする。
(…)
今回の行動で、彼はむしろ北朝鮮金王朝の玉座を継ぐ資格が十分にあることを内外にアピールできたのかもしれない。
何を考えているか、何をするのか分からない人間」が、東アジア政治情勢の「鍵」を握っているという「恣意性の恐怖」こそ、金正日が手持ちの政治的リソースを国際政治で最大限効果的に発揮するために見出した奇策だからである。
夜霧よ今夜もクロコダイル(内田樹ブログ2001年)5月5日
>>

これはこの頃あった,金正日の長男(らしき人物)が偽造パスポートで日本に入国しようとして拘束された,
という事件についてウチダ氏が書いたもの.
最近のミサイル騒ぎが念頭にあってこれを引いたのだけど,
北朝鮮のふるまいはわけがわからないがその「わけのわからなさ」は
「独裁者の政治的駆け引き」という文脈におけば常道であるという話.
これを「理に適う」と言えるためには,論理の自己言及性を頭に入れておく必要がある.
…というか逆に言って,
「合理的な行動」と呼ばれるものが時に空疎で現実的でないのはこれが抜け落ちているせいかな,と.
予件のない正義論は「きれいごと」でしかない.
「ケースバイケース」が「そりゃあたりまえ」で終わってしまう人も抜けている.
投げやりな言葉ではなく,戒めの言葉として使われてこその「文脈次第」だろう.


ウチダ氏記事を肴にマジメに考えていると説教調になるのは偶然ではないな…

# by chee-choff | 2012-04-08 23:08 | 思考 | Trackback | Comments(0)

変化の名

『リヴィエラを撃て』(高村薫)を読了.

やはり高村薫の描く主人公は境界人であった.

関西と関東のはざまに合田雄一郎は生き,
宗教と政治のはざまに福澤彰之は生き,
そして今作の手島修三は日本とイギリスのはざまに生きた.

秩序と秩序の境界では,摩擦が起こる.
境界人は,その摩擦に吸い寄せられる運命にある.
その運命を甘受してこその境界人.

うん,憧れました(あんたそればっか)
憧れた時にいつも悩むのは,読み手としての自分が既に俯瞰する位置にいること.
「同一化したい」という思いは,抱いた瞬間に構造的に叶わぬと決められた願い.

だから,次元を上げねばならない.
読み手としての己はいかなる境界に立つか.
それは「現実と物語」.

己がその境界人として甘受したる認識とは何か.
「物語は現実を包含すると共に現実の一部であり、現実は物語の一部であると共に物語を包含する。
 両者は渾然一体となりながらも同一にはならず、その姿を静的に定めることはけっして叶わない」

両者を一つ名で呼ぶとして,「ウロボロス的永久機関」はどうだろう.
科学で実現できないものも,意識はいともたやすく実現できる.
つまり「永遠」は意識の夢.

+*+*+*

と書きながら及んだ連想.
きっと「同じ話」.

>>
進化は「種分化」──一つの系統が母種から分離すること──によって進行するのがふつうであって、この大きな母種がゆっくりとしだいに変化することによってではない。種分化が何度もくり返されると、一本の灌木が生ずる。
(…)
エルンスト・マイアによってひろめられた異所説では、新種は母種の分布範囲の周辺部で母種から隔離されるにいたった非常に小さな個体群から生じる[E. Mayr, 1942]。この小さな周辺隔離個体群における種分化は、進化の標準から見て非常に急速で、数百年ないし数千年(地質学的年代からすればほんの一瞬)でなされる。
スティーヴン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来 上』「6章 ヒトの進化における灌木と梯子」p.84-85
>>

# by chee-choff | 2012-04-06 23:14 | 読書 | Trackback | Comments(0)

遊歩道。散策の道、回遊の道。

『「聴く」ことの力』(鷲田清一)を読了.

旅に出たいと思った。
いや、この本を読みながら、すでに旅に出ていたのだった。
「いま、ここでしかありえないところ」に、いくつも立ち会ってきた。
そして読みおえた。
だが、読みおえて「かえってきた」わけではない。

 「臨床哲学は始まったばかりである。」

ことばをたずさえて。
ふれる(振れる)ことをおそれずふれる(触れる)。
<わたし>を「あなた」とよぶ<あなた>を、<わたし>も「あなた」とよぼう。
そうしてぼくたちがともに<わたし>であるために。

>>
(…)ランドネ[遊歩道]の道は、風景と折りあいをつけながら、ときに風景のその襞のなかに紛れ込んだり、社を迂回したり、別の道に通じたりして、うねうね進んでゆく。この「長く、曲がりくねった、ぎざぎざした、雑多な」ランドネの道で、ひとは寡黙なものにふれる。思いがけないものと遇う。用がないものにも目を向ける。じぶんが方法の道の上にいればぜったいにふれられないものに、ふれるのである。
第八章 ホモ・パティエンス
>>

未知に充ち満ちる道を。

# by chee-choff | 2012-04-05 00:26 | 読書 | Trackback | Comments(0)

思考の灌木を辿りなおす/BigHandGossip

この「灌木」は「生物の進化は梯子ではなく灌木」という進化論のお話からの拝借.
ガリレオ,ニュートン,ダーウィン,フロイトの「科学界四大激震」の3番目の経緯が
グールドエッセイ1巻目に書かれていて,科学観がいかに政治に左右されてきたかが分かる.
最前線にいる科学者はみんなそれを実感はしていて,でも世間に伝える手間を惜しんできた.
(そのメッセンジャー的役割は科学者の職業倫理に悖ると思われていた)
科学信仰はきっと研究の最前線から離れたところに発祥したのだろう.

学部生時代に科学哲学に興味を持ったのも「科学の無謬性」に疑問を持ってのことだったのだけど,
(科学哲学っつーと,クーン,ポパー,ファイヤアーベントらへんがうっすら記憶に残ってる)
今はきっと科学哲学というより「科学についての物語」が必要なのだろうと思う.
『鉄腕アトム』でもいいのだけど,それをお話で留めとくんじゃなくて「本気にする」のが必要.

また逸れた話を広げて元の話を忘れそうになるので戻る.

+*+*+*

昨日の記事で「2種類の可能性」の後者の説明を,
「経済活動の枠で」とか変な方向に持ってってしまったのが気にかかっていて,
少し時間をおいたら「実感ベース」のところを思い出した(思いついた,ではない)のでここで接ぎ木.


消費活動における可能性の行使は「選択の前後で主体が変化しないことが前提」という話でした.
ある物をお金を払って買う時に,お金を払う人はそれを欲しいと思って買います.
それを何に使うかを既に想定していて,払う金額も妥当だと思って買います.
つまりそれを買ってから「これ何に使うんだっけ」とか,
「あれ,お金払い過ぎたな」と思うことは基本的にないわけです.
逆にそういう経験をしてしまった場合,その消費活動は「失敗」とみなされます.
「最小の対価で最大の価値を手に入れる(そしてその価値は交換前から分かっている)」のが,
理想的な消費活動のあり方です.

上記が基本としてあって,次に「未知なる経験を手に入れる」場合を考えてみます.
様々な体験,スポーツ,アウトドア,海外旅行などとしましょう.
こういった体験を「やる前から(何が得られるかが)分かっている」ことは多分少ないと思います.
それを想像していて,実際やってみて想像通りになったことを喜ぶことも有り得ますが少数でしょう.
多くは「なんだか面白そうだ」という興味や現にそれをやっている友人の面白そうな話が最初にある.
そして,お金を払うことでその体験をすることができる.
もちろんこれも消費活動です.

そうして興味本位でその体験をして,思いがけなくはまり込んだとしましょう.
自分が想像していた以上に面白い体験をした,もっと深めてみたい.
このとき,その体験をした人は,体験する前から変化したと言えるでしょう.
さて,ここからが肝心なのですが,
この一連の活動は,「消費活動」としては「失敗」にあたります.
消費主体(の価値観)が消費の前後で変わってしまっているからです.
「でも彼は楽しい思いをしているじゃないか,それも想定以上に」
もちろんそうで,そのこと自体は何ら否定する余地がありませんが,
消費活動としてのそれは「たまたま」であって,賢い消費であったとは言えません.

何が言いたいかといえば,
「思いがけなく楽しい」「想像以上の価値を得た」「意外に得をした」
こういう「棚からぼた餅」的消費活動は理想的な消費主体にとって全て「失敗」であることです.

ここで「2つの可能性」の前者を思い出してみると,
それは「選択の前後で主体が変化することが前提」された可能性のことでした.
この可能性の行使が過たずなされる時,その主語を「消費主体」に想定してしまうと,
しつこいですが全て「失敗」であるとみなされます.


実感ベースと言いながら全然実感の伴わない話をしていて恐縮ですが(書いてから気付いた),
ここからはさらに自分の想像の範疇外の話になります.
上で何度も書いた「失敗」は,論理的にはそう言えるかもしれないけれど,
本来の失敗に伴う苦しみや挫折感とは程遠いものだろう,
と読んでいて大半の人が思われるはずです.
その点は僕も同意します.

しかし僕が怖いと思うのは,
この「失敗」を本来の失敗と全く同じように感じてしまう人がいるかもしれない,ということです.
僕はそのような人の存在は話でしか知らないし,その人の内心も想像できない.
ただ,「どういう教育を受ければそのような子どもが育つか」については,
話を聞いただけでも想像はできます.
その教育がすなわち「       」です.

+*+*+*

別に最後を穴埋めにする意味はなくて,
そしてここは最後じゃなくてもっと話の展開があるんですが,
まあ今回はこの辺で.
ううむ,これだけをするすると書けるのは「同じ話」を何度も読んできたからですね.
自分のことばであって,自分のことばでない.
面白い.

+*+*+*+*+*+*

というわりとマジメな話に続ける話じゃないんですが,
(まあむしろそうすることでカムフラージュ効果を狙ったということで)
「大手前のオセロ」と呼ばれた(なんつうてブラバン連中にしか分からんが)お二人が,
どうやら「メデタクごおるいん」なされ(てい)たようで(「黒い方」は速報レベル).
このたびはおもでとうございまひ.
しかも全く予想外にマジメに社会人をやっておられると聞き及び,
やはり地球が回ると何でも起こりうるのだなあと感慨に耽りました次第.
そりゃ地軸もズレてくわ,みたいな.
北極点も真っ青よ.

ヒドい話や(扱いが…)

# by chee-choff | 2012-04-01 00:29 | 思考 | Trackback | Comments(0)

六連休の四日目みたいな疲労

今週は月と金(今日)に有休をとって週休4日です.
が,「今日から3連休」という感じではない.
なんかもう出勤も有休も違いがないような.

会社の勤労管理システムに有休の理由を書くんですが,
いちおう今日病院行ったんで「通院のため」って書いたんですけど,
誤変換で「痛飲のため」にしたら笑えないなあとか.

今日病院に行ったのは花粉症のお薬をもらいに.
前にもらった1ヶ月分が切れたからなのだけど,
気がつけば恐ろしいスピードで1ヶ月が過ぎていた.
そう,気がつけば3月はもうおしまいだったりもする.
花粉症の時期は「自分を保つのに精一杯」なのはしょうがないけれど,
自分のことだけを考えて過ごす時間のなんと短いことか(体感が,ね).
これはきっと普遍的なことで,そして自分はあまりよろしくないなぁと思う.

風邪は快方に向かっていて,一方で花粉症は引き続き抑えられていて,
「この時期のベスト」と思われていた状態がどんどん上方修正されてはいて,
それでもタイトルに疲労と書くのは「蓄積されてる分」の話です.
今日は駅前の病院に行ったのでいつも通りブックオフにも行って
(『アウトブリード』(保坂和志)を105円でめっけた!これ定価2100円なのね…ハードだなあ)
ベローチェで読書もして
(体調的に軽い新書がいいなあと『<対話>のない社会』(中島義道)を読み始めたが,
 何を勘違いしたのかぜんぜん軽いはずはなかったけど不思議にしんどい今と波長が合い,
 隣でぺちゃくちゃ喋る中学生(話だけ聞こえてそう思ったが見てみたらたぶん大人)の話と
 本の内容がこれまた不思議に共鳴して不思議に(説明せい説明)思ったりした)
コーヒー1杯飲む間に水を8杯も飲んで不審がられたかもしれないが
(店内に90分いる間にグラスが2回割れる音がしたけどまさか僕のせいじゃないよね)
いろんなことを考えながら考えるだけに留めて病院行ってさっさと帰ってきました.

考えることを「考えるだけに留める」のは思考内容に感情移入しないようなことでもあり,
(この「感情移入する」は「当事者になる」といったニュアンス)
でも今日みたいな体調が悪い時のそれは別の意味も帯びているようで,
それはむしろ逆に「感情移入のための手間が省けた状態」を指しているようにも思える.
というのは簡単にいうと,
何やらしんどいことを考える時に没入しようと思うなら,
元気な時よりもしんどい時の方がやりやすいね,ということ.
で,「しんどいこと」はすごくおおざっぱな表現ではあって,少し具体的にするなら,
「直視しづらい本質的なこと」とか「今の自分の価値観を揺るがすこと」だとか.

という意味で(どれだ?)今日は外出から帰宅するまでの思考がなんだか「するり」としていて,
普段の自分ならしそうな躊躇がそこにはなく,それを振り返る今の自分は「おお」と思う.
きっと調子がいいのではなくてどこかが麻痺しているのであって,
でも思考をじっさいに回す部分は麻痺もなく疲労もなかったからでしょうね.

でいくつも思いついたことがあったので思い出せる限り再現しておく.

まず「2種類の可能性」について.
(1)「子どもに宿る無限の可能性」とか,僕がよく引く「可能が可能のままであった頃」という時のは,
その主体が可能性を発揮することはイコール主体の変化でもあるわけです.
選択肢はたくさんあって,その一つをいったん選んだならばそこから自分はどんどん変わって行く.
「選択を間違えた」と思った彼は選択した当時と変わっていないのかもしれないし,
ある程度変わったからこそ次の変化を求めていったん立ち止まることを「選択した」のかもしれない.
(2)一方で,消費主体としての選択可能性というものがある.
これは相応のお金と引き換えに商品や経験を得る選択肢の広さを言っていて,
選択肢の広さとは言わずもがなで「どれだけお金をもっているか」です.
この消費主体の特徴は何かというと(1)と正反対で,
「選択の前後で主体が変化しないことが前提」です.
これを実感ベースで説明するのは今思いつかない(か忘れてる)のでしませんが,
代わりに「経済活動」という枠で説明してみます.
お金を信用して経済が回っている以上「お金の信用」は何よりの大前提で,
これは経済活動の範疇においては何が起ころうが「変わらない」.
逆に言えばそこが変わる時に行われている活動は経済活動ではない.
消費主体はお金に信用をおいている限りは消費主体であり続ける.
お金で経験を買って「スキルアップする」とか「生活を充実させる」とか言いますが,
それは消費主体であることをそのままに自分を変えようとしているわけです.
それが上っ面の変化だと言いたいわけではなくて,
例えば消費主体が消費主体であることを(普段は意識しないけれど)忘れることは
「自分の根っこに変わらないものがある」ことを意識しないことでもあります.
それが足かせになることがある,と言いたいのだけれど,
これは「プロとアマチュアの違い」といえば分かりやすい.
「生活のために妥協しなければならない」ことは一つの足かせです.
仕事で稼いだお金で生活している人は,その意味で「その仕事のプロ」で,
その仕事が自分のプライベートを制限している(時間は減りますね)だけではなく,
生活がかかっているという意味で仕事に関わる行動に足かせがはめられている.
これは当たり前で,「それをわざわざ足かせと表現する意味はない」という声も聞こえそうですが,
僕は「意味はある」と思います.
これは前に書いた「生身の無常観」に通じる認識でもあり,
『薄氷の踏み方』(甲野善紀・名越康文)で名越院長が大切という「認識」の一例でもあります.
(この本についてはまた書きたい.書評として書くのは難しそうだけれど…文句なしの☆☆☆☆☆です)

話がずれてからいつも以上にずるずると引きずってしまったのは,
「戻るのにも体力が要る」からですね.
さて戻りますと,二種類の可能性の話でした.
(「変化を前提する可能性」と「変化を前提しない可能性」の二種類ですね)
そしてもんのすごいおおざっぱに言いますと,
「この二種類の可能性を混同したところに時代の早とちりがあったんではないだろか」
と思ったわけです.
これは「労働より先に消費を体得してしまう消費社会の教育における弊害」と
同じようなことを言ってるんでもありますが,
(あと「期待通りの自己実現」とかいう変な話もありますね)
帰りのバスの中で考えてる時はもっと広くというか違うことを考えていたような…
まあ,忘れました,はは.

そして一つのことを長く書き過ぎてあと全部忘れちゃいました.ははは.
たぶん『薄氷の踏み方』(今日読了しました)を読み返せばぽこぽこ出てきそうなので,また.
で,本書を読んで一つだけ気になったところを.
きっと他に指摘する人がいなさそうな話なのだけれど,
甲野氏は本書の中で何度も「(甲野氏の)生きる意欲(の有無)」について言及していて,
本書の内容もすごいけどこのことが示すこともかなり大きいんじゃないかと.

甲野氏の著書もいろいろ読んでみようと思います.
『剣の精神史』とか.

あと言い訳っぽいこといいますけど,
今日の筆致の疲れ具合は中島氏の著書の影響を強く受けているという自覚を持っています.
なんか丁寧語だしね(なぜ?)
おしまい.

+*+*+*

タイトルを見直して思う.
多分自分は連休があまり好きでないんでしょうね.
もちろんそれは会社人間だからではなくて,
「リズムが崩れる」から.
それは会社人間の言い分じゃないか.
違います.

+*+*+*

ああ思い出した.
上まで書いて一度送信して見直そうと思ったら思い出した(と書く意味は何もないんですが).

「自分のことだけを考えていられる幸福感」
というものを今日自分に対して感じたのでした.
それは体調的にそうせざるを得ない,という状況があってのことなんですが,
…これなんか分析しにくいですね.
まあ感想だけいうと,
周りが見えないで自分中心に振る舞えている人はその間は幸福で,
そしてそれに邪魔が入ると一気に不幸を体感するんだろうなあと.
自分は「不機嫌な顔をわざわざ露にする意味」なんて功利的に考えてもないだろうと
日頃から思っているんですが,そうせざるを得なくなる状況について
今日はうっすらと想像が及んだのでした.
まあこのことで自分の生活態度が変わることはなさそうですが,
今までにない方向の「想像の芽」を今後伸ばせる可能性を見つけられた気がします.
もちろんこの「可能性」は上でいう(1)の方です.

今度こそおしまい.
そしてきっと23年度もここでおしまい.
よいお年度を.
違うか.

# by chee-choff | 2012-03-31 00:07 | 思考 | Trackback | Comments(0)

ねみみみみず

越えられない壁

寝耳に水 <<<<< 寝耳にミミズ

ということで一日ぐったりしてる間に凄いことが会社で起こってたんですが
まあここでそんなこと書く気もないというかそれはウソで(どれだ?),
公私の「私」の方の(昨日言ってた)過渡期の話をしましょう.

+*+*+*

花粉症治りました(笑)

# by chee-choff | 2012-03-28 23:13 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

この前近代にしてこの「近代」あり

絶好調のハシモト節.
調子乗ってたら1ページまるまる線を引きそうになる.
>>
 前近代は、「思考の自由」なんか理解しない。現実的な「形あるもの」と結びついて、初めてその価値を理解する。「形あるもの」と結びついていなかったら、それはただの無価値で、それをする人間は、ただの「変わり者」である。「思考の自由」なんかを理解しないからこそ、前近代は、「思考の自由」を求める「近代」を生む。生んだ前近代は、「自分が生んだこと」だけは理解して、自分の生んだ子の「内実」なんかは理解しない。もしかしたら、「自分が生んだ」ということさえも、理解したくなくなったら理解しないかもしれない。だからこそ、「お前みたいな子を生んだ覚えはない!」という、素晴らしい啖呵も存在するのであろう。
 前近代は、ただ「思考の自由」であるような近代を理解しない。だから、「親」でもある前近代への理解──つまり「言いわけ」の必要に迫られた近代は、それを「形あるもの」に結びつけようとする。だから、「近代社会」とか「近代知性」とか「近代兵器」というカテゴリーのようなものが生まれる
「近代社会」とか「近代知性」という概念は、いたって前近代的な発想である(橋本治『いま私たちが考えるべきこと』「7 へんな土壌からはへんな木しか生えない」p.123-124)
>>

そしてこんなことをさらりと書くハシモト氏にびっくりしてしまうのである.
>>
 私にとって「近代」とは、ただ「思考の自由」である。のべつまくなしに「こんにちはー」だけをやっている習性をつけてしまった人間にとって、「それをやらずに、ただ自分の思考への集中を続けてもいい」は、大いなるゆるしである。前近代から近代を覗き見た私は、だから、「そんなことやってもいいんだ……」と思ってびっくりしてしまうのである。
同上 p.122
>>

タイトルのカッコは,「巷ではこう使われてるみたいだけどサァ…」という意味のカッコですね.
『括弧の意味論』で分類されてたはずだけど…もう忘れました.

+*+*+*

今ちょっと過渡期なので一段落してから書こうと思います.
あらたいへんさぁたいへん
たいへん抜いたら「アラサー」(死)

# by chee-choff | 2012-03-28 00:17 | ハシモト氏 | Trackback | Comments(0)

それを言うことで何を「言わなかった」か?

心に留める.

>>
ある種類の計算のためにしか知性の行使が許されないという場合、それは「計算をしている」のではなく、「計算することを強いられている」のである。
(>強いられていることを自覚できない状態が「抑圧」である,と)

つねにより有利な交換比率を求めるものは、自分の手持ち資源の価値ができるだけ過大評価されることを願う。過大評価のカーブは、市場に差し出す自分の手持ち資源の価値がゼロであるときにその最高点に達する
つまり、ひたすら有利な交換を願うものは、その論理的必然として、やがて自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願うようになるのである。
(>「交換比率」とは変化量であって,そしてある意味「相対値」でもあるわけですね)
『赤毛同盟』と愚鈍の生成について(内田樹の研究室 2012年03月22日)
>>

+*+*+*

ウチダ氏は朝日新聞の「仕事力」(日曜の求人欄の上部にあるコラム)の取材を受けたらしい.
氏は朝日の紙面論議委員みたいなものをやっていることもあり,
読むのを止めた(確か毎日に代えられたはず)のに(から?)これまで何度も投稿文章が載っている.
(確かつい最近は沖縄の米軍基地問題について書いていた)
普段からウチダ氏の文章を読む身としては朝日の「エッジの削り方」が凄いというか
「これが紙面の力か」とある種感心するのだけれど
(でも上の米軍基地問題の投稿はほとんど「いつもの感じ」が出ていた),
こうやって比較のために取材時の発言を書いといてもらえると
「新聞社の言いたいこと言いたくないこと」が良く分かっていいと思う.

単一のマスメディアに浸かり続けると「書かれていること」について良く考えるようになっても
「書かれなかったこと」についてはその存在すら想像されなくなる.
公正中立とのたまうマスコミにも当然「視点」はあるわけで,
マスコミの視点は常に相対化させてから内容に触れないと大変なことになる.
(というかもう「なっている」のか)
では複数のメディアに触れていればいいかと言えば,まだ不完全ではあって,
それで相対化できるのは「個々のメディアの癖」だけで,
「マスメディアが共通に持つ癖(=価値観)」に目を届かせるのは難しい.

つまり「検閲済みの記事」と「生ものである取材内容」の比較によって
個々のメディア(今回は朝日新聞)の癖を「その価値観も含めて」すかし見ることができる,
ということで上のリンク先のウチダ氏ブログを読んだあなたは「仕事力」も必見です.
たしか今は村木厚子氏(郵便不正事件(曖昧)で冤罪に遭った人)の何回目かで,
一人につき4回分だから次だとしても4月だと思います.
楽しみ☆
なのはもちろんコラムの内容そのものでなく「何がはしょられたか」が明示されるのが,です.


なんだかまともなことを書いてるな…
やはりリアルタイムで読んでいる文章によって自分の書く文(の内容と文体)が決まるらしい.
まあたまにはいいか.

# by chee-choff | 2012-03-25 00:50 | ウチダ氏 | Trackback | Comments(0)

つまるところ花粉がニクいと言いたいだけ

昨日の記事を読み返すとなんとも投げやり.

症状がおもくそは出てないのは今年はましだからなのかなー
と思ってたらそうなのかもしれないけどそうではなさそう.
というのも前にも書いたが疲労が溜まる溜まる.
田丸っていうのは信頼性試験の(おい
昨日今日とか出勤時に既にして定時前後の疲労感でもうどうすれば…
お陰で受け身姿勢が疲労硬直して,
面倒臭そうな(でも本来面白そうな)仕事を振られた瞬間に
上司の目を見つめて5秒固まるという失態もやらかした.
しかも目に涙を溜めて(この涙の何割が花粉のせいだったろう?).
いやほんと元気な時なら笑顔で引き受けたはずなんですが…
身体が現状維持のゴンゲになって脳は「あらまぁ…」って沈黙してて,
いやもう少し臨機応変に振る舞ってもらいたいけどそうもいかないですかそうですか
加えて周辺で色々衝撃なことが起こっていたり抱えていた難題がぽろりと解決したりしていて
その都度傍にいる人々がテンションを上下させているのに
自分はあたかも華麗にスルーな雰囲気を漂わせてしまったり(「難題ってなんだい?」が如く),
いや実は自分を保つのに必死でそれどころじゃないと是非に訴えたいのだけど
それを言ってしまわないことが自分を保つことの中に含まれているので
どうしようもないなあという悲しき葛藤にもエネルギィが消費されてもいて
人間ってめんどくさい.

もちろんすべきこと(仕事の話じゃなくてね)は分かっていて,
今まで何度も言ってきたけど確認のために書いておくと,
しんどい時の自分の言うことには耳を貸さない.
自分の発する声は体の外側と内側の両方から耳に伝わるのだけど,
外側からに関しては「左から右に抜ける」でこれは定説なのだけど,
内側からに関しては「内から外に抜ける」で,あれ? 普通?
ということで福岡伸一氏(じゃなかったかもしれない)の「ちくわ的身体」を思い出そう(飛躍)
つまるところ身体はちくわであって,
つまるところ詰まらない.
つまりつまるところつまらないところがつまらなくない(=面白い).
世の中詰まる所に「ツマリ」在り,
ツマリ在りて詰まる所も詰まらざりけり.
ツマリ排水溝にはドメストで除菌であって,
ドメストは国産なので「ドメスティック・ドメスト」.
とどめを刺す人「トドメスト」.
日本人なら(←?)「ドメスティック・トドメスト」.

@赤玉

# by chee-choff | 2012-03-24 00:33 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

グールドがおもしろい/64番目の素数


実家から持って帰ってきた『嵐の中のハリネズミ』が面白かった.
著者の科学エッセイ集5冊目らしく,
じゃあ1冊目を読もうってことで『ダーウィン以来』を買って読み始めると面白い.
ということで2〜4冊目も買っちゃおうかしら…

この上巻収録エッセイの初出は1977年.
日進月歩の科学を扱う本としては古いんじゃないかと思われそうだけど,
そんなことはない.
進化論が誤解を生みやすく,その誤解が社会通念を形成していった,
というその内容を「よくそう言われてるよね」と受け取れるところが,
そのまま著者の主張を裏付けている.
進化論がテーマといって本エッセイは社会や人間の話と深くつながっていて,
単なる教養系読み物を超えた「見る目を養う」思考の書となっている.

一日一章.

+*+*+*

しかしこういった本が古いというだけで1円で売られている(送料込みで251円)事実は,
本の価値が正当に評価されてなくて悲しいとかそういうことは全然なくて,
需給関係の素直な顕れに過ぎない.
今,大きな需要が見出される価値とはいかなるものか?
それを問うのは資本主義のルールを懐疑するのと似たようなもので,
競争に勝てるのはルールを懐疑する者ではなくルールを遵守する者.
だから自分は生まれる時代を間違えた,とたまに思うのだけど,
この「だから」が飛躍しすぎて面倒臭い.

お金の価値は持ってるだけで目減りするから退蔵せずに価値あるモノと交換する,
という「効果的な消費」はきっと正しくて,
正しいんだろうけど素直に従えない自分はやっぱり生まれる時d(ry

うん,理由をつけよう理由を.

+*+*+*

なぜかグールドの話だったのに大逸れしたので戻る.
>>
(…)これらのエッセーであつかった範囲は,惑星や地球の歴史から社会や政治の歴史にまで広くおよんでいる.けれども,これらはダーウィン版の進化論という共通の糸で(少なくとも私の頭の中では)結ばれている.私は専門家ではあるが大学者ではない.私が惑星や政治について知っていることは,それらが生物の進化と交叉しあうかぎりにおいてのみである.
スティーブン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来 上』p.14
>>
ひとつの見方でいろんなものを見る,というのはとても参考になる.
一人のひとがものを見るとはそういうことだ,ということもあるし,
その「ひとつの見方」という専門が読み手に縁遠いものであるほど,
加えて著者の見る「いろんなもの」が読み手には身近であるほどに,
読み手は新たな視点を親身な実感と共に獲得することが可能となる.

そして時間に耐える書物には何がしかの本質が含まれているものなのだ.
(本書の文庫版は今でも新品で購入できる)
「一日一章」が習慣化すれば日々の思考の質が今と少し揺らぐ気がする.
それは「かちっとする」方向への揺らぎということなのだが,
これは予感なので読み進める間に違う感覚が生まれればまた書こう.

+*+*+*

久しぶりLemm氏の嬉しい更新.
全く私的な話だけれど,この曲(remix前)を聴いて甦る景色と感覚はまだ内にある.
いつまでも,いつまでも.

「何処までも 私 シアワセニナリタイ」
【初音ミク】kirisame nrrmx【RMX】

# by chee-choff | 2012-03-22 23:20 | 読書 | Trackback | Comments(0)

お題:機上の邂逅

「ハイジャック・デリダに動じるドゥルーズ」

あ,ダメ?(笑)
じゃあ誰なら動じないだろう…?(どうでもいい)

「ジョセフ、動じナ〜イ!」
っていうカタコト本人談風味(笑)

はい,寝ます.
「健、ノーじゃない、ハイよ、ハイ」

もうお分かりですね?

# by chee-choff | 2012-03-21 00:49 | ことばあそび | Trackback | Comments(0)

動じない「同時性」と「共時性」の矜持<併読リンク13>

張り合ってる感じが微笑ましいタイトル.
ちなみにドージマムテキの馬主は大阪出身(嘘)

このカテゴリを使うのは久しぶりなのだけど,
併読中のリンク自体はいっぱいあるのだけどパターン化しているようで
改めて書き起こすこともないなあというものが多かった.
その意味では本記事は繋がり方が新しい.


>>
 最後に,おことわりすべきことがある.これから先は冒頭から巻末に至るまで,接続詞の使用を避けるよう心掛けた.文章を難解に仕立てるという不遜な狙いなどあるわけもないが,もし読者に若干の不便をおかけする場合にはご容赦を乞うしかない.あくまで<遅れ>の積極的な意味を,できるかぎり現前させようと力を尽くした結果であり,(…)
春日直樹『<遅れ>の思考』p.27
>>

>>
(…)止まっている雲もじつは「立ち去ることができない」のであって,ここでは運動障害に罹っているのである.カラスはただそこに「いる」のではなく,「遠出してきた」.運動の結果,おそらく相当に疲労し,なにかにとまって休んでいるのであろう.暗闇は人を吸い込まず,悪夢を「提供する」.ここでは暗闇すら「運動する」のである.(…)ここでは小説に「身を任せれば」いいのである.(…)身を任せていると,運動が心地よく伝わってくる.最後にはメマイまでしてきたから,奇妙なものである.頁から目を離して戸外を見ると,見慣れた風景が,すべて運動の途中経過に思われてくる
養老孟司「運動小説」(『涼しい脳味噌』p.197-198
>>

後者は時評集(新聞連載などをかき集めたもの)で,
この一節は島田雅彦の『夢使い』という小説の書評のようなものから抜粋した.
『夢使い』の本文の記述が動性に満ちていることを紹介していて,
最後の一文を見て僕は「面白そやな!」と思ったのが今日の20時頃.

でこの4ページほどの書評を読み終えて次に手を取ったのが前者で,
これは今日が読み始めで抜粋箇所は序章の最後の部分.
「接続詞の使用を避ける」みたいなこと自分もやろうとしてたな…
と立ち止まって頭を巡らすうちにふと後者の抜粋部分が浮かんできたのだった.

前者は後者の「動」に対する「静」というわけではなく,
(ちょっと趣旨を把握しかねてるかもだけど)記述における時間の流れを隠すための措置らしい.
抜粋部分の章では「こぎとえるごすむ」が時間順序のニュアンスを与えるとかカントがそこから
時間を抜き取った点が革新的とかデリタはドゥルーズは云々…みたいな話があって,
結局「まあそこはおいといて」で幕開けという面倒臭さプンプンの本なのだけど,
テーマが面白そうだし晦渋なんだけど本音が時々ぽろっと出てくるのでなんとか食らいついていく予定.
「考えることそのものを楽しむ」が底流にあればどんな本でも読める気がするので.
以上散漫メモでした.

# by chee-choff | 2012-03-21 00:00 | 併読リンク | Trackback | Comments(0)

からはからかはからうの。

 馳せる 
 爆ぜる 
 褪せる 
  焦る

 請う 
 恋う 
  煌々

 醒めぬ昼
 滲む夜
 代わらぬ朝

 彼方 血の白
 此方 知の黒

 灰から愛の。


# by chee-choff | 2012-03-19 22:22 | ことばあそび | Trackback | Comments(0)

金カネ人カネ何方カネ?

ちょっとした食事時間のイレギュラーがあって,
今日はいつもよりじっくり新聞を読んだ.

Asahi Globe(だっけ?)が今号から縮刷版で読みやすくなって,
それでいてテーマが金(Gold)だったのでちょっと惹かれて目が向いた.
掘削する鉱石の金含有量が1トンあたり数グラムだとか(値はもう忘れた),
万札の原価は14円だとか当たり障り無く面白い話題がいくつかあったが,
ひとつだけいつもの興味を惹いたのは金の相場を決めるものの話.
相場経験の長い人(とボカすのは勿論忘れたから)の言として,
「金の値段は人智を信じるかどうかで決まる」
とのこと.
なるほどその通りだと思うが,すると思うのは,
「金を買う人は人智を信じていない」
と簡単に言い換えられるなあということなのだけど,
いいの?
いや悪いことはないが.

金の値段が今はガンガン上がっているらしいが,
中国では貯蓄(ではなく増やす気なのだが)に金を買う人がたくさんいて,
でも日本はあまりそういう流れは起きていないらしい.
(日本は金の輸出国であるとのこと.知らなんだ)
バブル経験してるしね.

しかしあの超右肩上がりの折れ線グラフは確かに魅惑的やね.
でも僕は人智を信じるから金は買わないけど,
と納得できれば人智を信じてることになると思うんやけど,
あれ,こんな簡単でいいの?

+*+*+*

最近文章が泣いていないのはあまり症状が出てないからです.
気温が低い日が続いており,恵みの雨で脳ミソ豊作(?)
でもテンションは上げません.
上げたら悲しくなるもの.

春過ぎて飛ばなくなったら花粉持ちで祝勝会でもやろうかな.
「我々は今年も無事眼鼻(げんび)に迫る猛威に耐え抜き…」
(これを「げんび」と読んだのは「むーげんにーびーぜっしーんーいー」からきてます)
なんて演説しちゃったりなんかして〜,もう!(←誰?)
うん,した気になったのでもうしません.
(花粉濛々の時は「ぼうじばぜん(T-T)」てなって悪いことして泣いて謝る時とおんなじ感じになる)
ぼうじばじだんでぼうじばぜん(T-T)
いてて,真似事してたら目がかゆく…
むう,病いは気からとはこのことか.
余計なことせんとこ..

# by chee-choff | 2012-03-18 20:05 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

生と死のアモルファス

以前,同僚M氏とこんな話があった.

 人はいつ死ぬか分からない.
 身近な人が唐突に亡くなるという経験も30年も生きれば一度はあるだろう.
 あるいは医者に癌と言われ余命を宣告された時を想像してみる.
 きっと病室の窓から見える木々の緑が輝いて見えるだろう.
 だからこのことを念頭に生活していけば毎日を本気で生きられるのではないか?

 でも実際はそうならない.
 いつ死ぬか分からないとずっと考えていれば気持ちは暗くなる.
 「どうせ死ぬのだから」と気持ちが負に転化することも想像に難くない.

 ではそんなことを全く考えずに日々を過ごせばよいか?
 …重苦しく考えずともそれにノーと言わせる実感がある.
 今を一心に生きる姿が輝いて見えることはもちろんある.
 だが日々のコミュニケーションに垣間みられる「生の軽さ」の淵源もここにある.

 「人はいつ死ぬかわからない」.
 このことを忘れずにしかし同時に暗さを抱え込まずに生きる.
 それがきっと大事なことだと思うが果して可能だろうか?

確かそのような話の流れの中で,僕は「身体を敏感にしておくことが大事」というようなことを言った.
(その時はそのまま「脳化社会」(@養老孟司)の話に流れていった気がする)
日頃から身体性に深い興味を持つ身として自然と口を衝いて出た言葉だと思う.
それは一面では正しいはずだが,やはり言い足りないものがあった.


今日ある音楽を聴きながら本を読んでいて,唐突に「無常観」という言葉が出てきた.
「行く川の流れは絶えずして…」である.
この言葉には何やら冷めた感じがし,生の躍動から遠く離れた印象を持つかもしれない.
だがそれは無常観という言葉を「純粋な客観的視点」と捉えているからではないか.
裏を返せば,ごく主体的な,生身の一人がもち得る無常観というものがあるのでは,と思ったのだ.
(この話とウチダ氏のいう「不条理」(@カミュ)とも繋がる気がして大変興味深いのだが
 これはまたどこかで.『ため倫』をいつか読み返したいな…)

そしてその「生身の無常観」と自分の思考のポリシーが繋がっている気がしたのだ.
そのポリシーとは,「考えることから逃げない」こと.
何度か書いてきた通り,3回生の時に意志したこのポリシーにより僕の日常はがらりと変わったのだが,
これは極言すれば「考えてはいけないことなど何一つない」という静かな宣言でもある.
もちろん「あることを考えること」と「それを口に出す」ことの間には千里の径庭がある.
(その距離を埋める欲望を拒むこと,そのことから「ためらい」が生まれる)

ある種の思考を(無意識に)拒否したところから「生の軽さ」が生まれる.
もしそうなら,じゃあ考えればいいじゃないか.
そんな単純なことかもしれない.
そう,始まりはいつもシンプルなのだ.
(お,なんだか村上春樹っぽいぞ)


ちゃんと言葉にしてかんとな,と思う.
二人を流れる時間が今はゆっくりであると信じて.

# by chee-choff | 2012-03-17 17:01 | 思考 | Trackback | Comments(0)

『圏外へ』吉田篤弘


圏外へ
  • 吉田篤弘
  • 小学館
  • 1995円
Amazonで購入
書評

# by chee-choff | 2012-03-15 23:51 | 読書 | Trackback | Comments(2)

< 前のページ 次のページ >