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深爪エリマキトカゲ

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沈思黙考.「日常の80%は頭の中で起こっている」 コメント歓迎.趣味等は右のネームカードをどうぞ.

工場C…

ということで田中Bさん紹介.
魅惑的な蔭りのある音作りが大好きです.

【鏡音リン】記憶消失【オリジナル】
コロ助!

【鏡音リン】夢少女【オリジナル】
夢.

# by chee-choff | 2012-01-26 22:52 | V概論 | Trackback | Comments(0)

 米を食い

 キムチ頬張り

 米を食い

 キムチ頬張り

 米を頬張り


ちひろ
# by chee-choff | 2012-01-24 23:31 | メモ | Trackback | Comments(0)
『括弧の意味論』(木村大治)を読了.

もともと括弧については興味があったのでさらりと読めた.
多少雑学を弄んでいる感があったのと,
ほんの一部の空疎な学術的記述(これが実感と乖離するとわりと興醒めする)が気になったのを除けば
全体的に面白かった.


新刊を読むのが久しぶりだったのでナウい(←死語?)話題に新鮮さをおぼえたが,
その中でニコ動に関する記述におっと思ったのでここにメモしておく.

>>
(…)また最近流行している「ニコニコ動画」では,インターネットの利用者が自由に動画にコメントをつけることができる.そのコメントは,動画を見ていて思わず勢いでつけたものもあるが,じっくり見て,じっくり文章を考えてつけることもできる.見る人にはそれが同時に見えてくる.そこは同時性と事後性が奇妙に絡み合った世界だと言える
p.66-67
>>

再生している動画に上乗せしてコメントを流せる,というニコニコ動画の特徴は
「共時性効果」(みんなで一緒に見ている)としてよく挙げられるけれど,
実はそのコメントは自分が見ている「今の今」に付けられたものだけではない
(むしろそれは全体のほんの一部に過ぎない)ことは意外と見過ごされている気がする.
 とはいえ実際に本当に同時に見ている必要はないのだが,それは
 「同じ場面で自分が感じたものと同じ反応がコメントで流れてくる」ことが
 共時性効果を演出するからである.

話が少しズレたけれど,ここで強調したいのは抜粋で木村氏の言う通り,
動画を流れるコメントには同時性と事後性が共存していることだ.
これは抜粋部の少し前にある「上から見る性」(p.66)の内訳でもあるが,
俯瞰するだけなら新聞でもテレビでも同じである.
そして新聞やテレビにも,提示される情報の「時間軸上の位置」にばらつきはあるのだが,
ニコニコ動画ではそれらと比較して「ばらつきの無秩序さ」と「切迫性」が突出している.
無秩序に流れていくコメントは視聴者の理解を待たずに画面上からすぐ消えてしまうのだ.
(もちろんそれはコメント投稿者が他の視聴者のことを考えているとは限らないからだ)

つまりニコニコ動画の視聴者は左から右に(たまに逆向きもある)大量にそして無秩序に流れる
コメントの階層的な位置づけ(本書でいう「論理階型」@ベイトソン)の判断を迫られることになる.
(コメントを逐一まじめに確認する視聴者の割合は少ないと想像するが,
 その意思がなくとも目の前を通り過ぎるだけでその気になるものである.
 が,コメント非表示設定ができることも言っておく必要はあるだろう)
何の階層かと言えば,前述を言い直しての「このコメントはいつ書かれたものか?」をはじめ,
「どの場面の何に対してツッコんでいるか?」「そもそもこの動画に関係のあるコメントか?」など,
いくらでも挙げられそうだ.
(と言ってこの項目の全部が全部「階層性」に沿わない気がするので,階層性も含めて
 ひろくコメントの「意味」と表現した方が良さそうだ)

そして意識的にしろ無意識的にしろそのような判断を下すことが習慣化すると,
「上から見る性」が強化され,その姿勢がニコニコ動画の視聴に留まらなくなる.
これが何事にも無感動というか常に白けた(人の)性質につながる,
という話ができるけれど,それはタイトルにつけたリテラシーの成長方向が負であって
(そしてこれと同じことはテレビについても昔から指摘されている),
僕が言いたかったのは正のリテラシーを付けられる可能性の方である.
(ここでいう正負は僕の主観です)

ちょっと長くなってきたので簡潔に言うと(ここからが本題のはずなんだが…),
自分の目の前を流れる情報の意味(階層性)の判断能力は
画面上に対してだけでなく広く日常生活で必要とされるものであって,
要はニコニコ動画のコメントと会話相手の発言内容を同一視できれば,
前者の経験を後者に活かすことが可能なのだ.

ここで同一視と書くと妙な誤解を生みそうなので補足すると,それは
後者を前者と同一視するのではなく,前者を後者と同一視するという意味だ.
ここでは生身のコミュニケーションに活かすと言っているので,
例えば画面上の無機質なコメントから個々の投稿者像を立ち上げるわけである.

その場の勢いで書いたコメントとよく考え抜かれて書かれたコメントとは
大抵すぐ見分けがつくものだが(ある場面のネタの背景を説明する「解説コメント」などが後者にあたる),
後者のコメントについては投稿者の立場や意図について考える価値は十分にあると思う.
もちろん前者について考える価値がないことはないが,
それは勢いで書かれたものだけに考えなくても分かるというだけの話.
そして前者と後者の見分けがつきにくいコメントが,
時に自分の価値判断基準を顧みることにつながったりもして一番興味深かったりもする.


うーむ…
論理的に書こうとすると途中で論理が暴走することがあって
(この暴走は悪い意味ではなく,論理発の新たな発想が生まれて,別の方向性が見えるということ),
気がつくと最初に思ってもみなかったことを書いていて基本的にそれは面白いのだけれど,
自分の実感から外れたことが書かれていたりすると「あー,やっちゃったな…」と思う.
まあそれも“書き始めの自分の思うところの”ではあって,
よくよく考えれば新たな実感が湧いて「なるほどー!」てなことにもなりうるわけで,
そこまでいかない(もっていこうと思えない)のは明日が会社だからですね.
サラリーマンだねえ.

何かしら「心残り」があればまた追記したいと思います.
「ニコニコ動画の(人の性質に関わる)機能」というのはもともと興味のあるテーマだったし.
うん,本書に触発されてここまで書けるとは思わなかったので,
4つかなーと思ってたけど☆半分プラスしておこう(ソーシャルライブラリの話です).

ということで(?)久しぶりにアフィって〆.
本書内で「刺激的な論考」と書かれていた本もつけときます.
卒論でプログラムがりがり組んでた者として避けては通れない(?).


括弧の意味論
木村 大治
475714265X


記号と再帰―記号論の形式・プログラムの必然
田中 久美子
4130802518


# by chee-choff | 2012-01-23 00:36 | 読書 | Trackback | Comments(0)
これまた昔の本を読み始める.
『蓮と刀』(橋本治)
初版は1982年.
やはりブックオフで見つけた本書は十分掘り出し物(¥105).



が,
というか「やはり」,
一瞥して既に副タイトルから危険な香りはぷんぷんしていて,
(あと「蓮」と「刀」はそれぞれ何の象徴か,とかね.序文にあったけど)
ああ…

『恋愛論』を先に読んでいて内容的にはもう耐性があって,
でも文体がなんとも凄まじい.
きっとこれが「桃尻語」だと思うのだけど(実はまだ桃尻娘シリーズを読んでいない),
桃尻語でフロイトをメッタメタにしてるのを見ると,とてもこの世のものとは思えない.
女子高生にそれっぽく朗読させたらどうなるんだろう…
いくら「すまして妄想を弄ぶ能力に定評のある」僕でもまともな表情してられんでしょうね.

ちょっと内容に触れると,
フロイト批判がミステリ仕立てになってて(気のせいかもしれない),それがもう執拗に執拗で,
加えて「なァに言ってんのもおォー!!!」な文体なのでもう笑うしかない.
(精神分析ミステリと言えば笠井潔がシリーズもので書いてるらしい…いつか手を出したい)
それは苦笑にしかならないんだけど,やはり(多いな)まともな顔を保てない.
彼からしたら僕もまだ「おじさん」側の人間なんでしょね(気になる方は本書をお読み下さい,ふふ)

いやホントに,ハシモト氏も昔に比べりゃ丸くなったんだなあ,と.
まだ1/3しか読めてないんですけどね.ああこの先が恐ろしい…
# by chee-choff | 2012-01-22 01:20 | ハシモト氏 | Trackback | Comments(0)
小説家には今の所憧れないけど,
小説家のような日常には少し憧れる.
つまり「高等遊民」というやつ(ちょっと違うか).
 高等遊民といえばかの守田氏(@森見登美彦『恋文の技術』)の
 「しばしば本質を突き過ぎる妹」の将来の夢でもある(なんと殊勝な!).
 しかし優雅な響きだなぁ…コウトウユウミン.
 そう,無我夢中でなく「有我夢中」にして「優雅夢中」なのだ.
 すれば前者は「無我霧中」といったところか.
 ワレナクシテキリノナカ,ワレアリテユメノナカ.

そうか,それを言うなら「小説を書かない小説家」か.
「あー,書く気しねえなあ(笑)」とか言って本を読み漁る日々,とか.

>>
「そう.つまりね,笑うとか,泣くとか,怒るとか,喜ぶとか.それらはどれも何かと何かがつながったときに引き起こされるもんなんだよ.感動とか,感激とか,何かがひらめくのも同じ.アイディアを思いつくとかね.それは決して外からやって来るんじゃなく,どれも,もともと自分の中にあったものが,不意につながりあって引き起こされたものじゃないのかな.若いときにはそれが分からなかった.自分の中に溜め込まれたものがまだ希薄だったから.でも,あるときからそれがつながり始めて,自分の中でいろんなものが意外なかたちで起ち上がってきた.それはさ,もう運命といっていいような気がするんだよ」
吉田篤弘『圏外へ』p.201
>>

つながらなければ,ただ呆然とする.
「見たこともないものを見た」時に,それが自分の中の何ものともつながらなければ,
反応の仕方が分からず,きっと全てが止まる.
車道に飛び出した鹿の如く.

円田氏(「つぶらだ」と読む)が言うように,人との関わりにおいてもそうであり,
「つながった」が生じるには「つながる前の分離された2つのもの」が必要であり,
予定調和はそれには馴染まない.

「分離された2つのもの」のそれぞれが既知であっても,
その2つのものがつながるという「関係」は未知なるもの.
つまり大きく捉えれば,未知こそが喜怒哀楽の源.
# by chee-choff | 2012-01-18 23:25 | 読書 | Trackback | Comments(0)


長い間読むのを中断していたのだけど(日常から記述に入り込む余力がなかった),
今年に入ってからナゼか一念発起して続きを読み始め,なんとか読了.
引き続きⅡ巻に入って,そのまま勢いで次はサイードの『オリエンタリズム』に挑戦予定.

再開した理由がちょっと思い出せないのだけど,
「一文一文を分かろうとしない」と肩の力を抜けばいいことに気付いたのが
再び読み始めた理由(あれ?).

固有名詞が沢山出てくるし当時の自然描写とかされて逐一脳内で再現できる,
って方がありえないのだけど,併読してる本はそういう読み方をしていたので
気付かないでいたのだった.

で,やっぱ本に入り込むには脳内BGMですかねということで,
クロノトリガー(懐かしい!)の「時の回廊」をチョイス.
現代日本から近代の南アメリカ・南アジアに「時を超える」わけです.
ちょっと前に見つけていたリメイク(しようとしていた?)サイトから頂きました.
corridors of Time
(少し下にある「SAMPLE MUSIC」にあります)

ちなみに本書と雰囲気ピッタリな付箋は院生時代にゴウ君に貰ったもの.
(中東かどこかの旅行土産だったかな?)
この方(付箋を指しています)も雰囲気作りに大いに貢献してくれました.
あとはお香(ホワイトムスク)を焚いたりとかしてました.

全然関係ない話だけど,ちなみのちなみに一緒に写ってるメガネは以前買ったPCメガネ.
更に目が悪くなった証なのかもしれないけど,日常に定着してしまった.
しかもPC見る時だけでなく,蛍光スタンドで読書する間にも欠かせない存在に.
今夏に度付きバージョンも発売されるらしく,こちらも是非ほしいところ.
傍目から色が少し入ってるように見えるのだけど,なんとか会社でもかけられないかしら..

+*+*+*

わっふるふわふわ.



この形状の雲がどう形成されたかについて少しだけ考えたのだけど,
たぶん「ワッフル雲」は粒子でなく波として振る舞っていたのだと思う.

「ぜーまん!ぜーまん!」
# by chee-choff | 2012-01-15 16:19 | 読書 | Trackback | Comments(0)
阿藤快が関西人かどうかは知らないけど,
阿藤快みたいな関西(から来た)人と一緒に仕事をすることになっ(てい)た.

よろしゅうたのんます,ほんま.
# by chee-choff | 2012-01-12 23:21 | 社会人 | Trackback | Comments(0)
 「メデタイ」は「目で鯛を釣る」の略でないのと同様に,
 「メガタイ」は「目が痛い」の略ではない.

ツチヤ教授のエッセイを読んでいると訳の分からないことを言っても
別に構わないような感覚が芽生えてしまうのだけど,
教授の語り口の妙は「訳の分からない感じがなんだか分かる」というもので,
この境地に達するには「対話相手を煙にしか巻かない」長い蓄積を要すると思われる.
つまり即興で真似をしても「訳が分からないだけ」であり,
それがいつもの自分と大して変わらないことを自覚した時に,
彼は自分に才能を見出すのか,危機を見出すのか.

つまり目が痛いです,はい.
自宅PCは控え目週間.
# by chee-choff | 2012-01-10 23:27 | 社会人 | Trackback | Comments(0)
凄いベン図やねこれは.



+*+*+*

思い浮かべる内容は一人ひとりが違って,
でも誰もが「そうそう,そうよね」と納得できてしまう言葉,
例えばこういうのが「普遍へ達した抽象」なのかなと思った.

>>
 そこに居続けて,その結果そこに依存するしかなくなって,「出たくない」と思うようになった人間が,実はその根本において,「ここにいたくない」という矛盾を抱えているのだとすれば,「出るしかない」という危機が,あまり危機にはならない.今の日本の不思議さは,そこにあるのだろうと思う.
「希望がない」ということが,そのまま「希望がある」になる.「出たいけど,出たくない」の矛盾はそれを可能にする.べつに悪くはないだろう──自分の真実を見つめる目がありさえすれば.
橋本治『失楽園の向こう側』p.278-279
>>
# by chee-choff | 2012-01-08 20:33 | ハシモト氏 | Trackback | Comments(0)
ゆくくる3では勝手に指が動いて書き始めたが何を言いたいかも分からず,

結局まだまだ力量不足だと思われたので仕切りなおして「ゆくくる3.1」です.

(3.1と書くとwindowsですね. 古い?)


身体性について言語化するにおいては,やはり自分の身体的経験をもとにすべきと思われた.

その系統の本は読んでいて,なんとなく感じを掴めてはいても,

それを自分の言葉で伝えようと思うのに「枠組み」の話ばかりをしていては,

読み手に実感は訪れないだろうし,だいいち身体性の要諦は実感なのである.

だから力量不足というよりは,経験不足.

この経験はいくら本を読んでも積み増されるものではないのは分かっている.

が,それでも腰が重いのは,自分の言葉で表そうと思っていないのだろう.

「この本を読めばいいよ」という紹介を人には(普段の会話の少なさにしては)よくするのだけど,

自分の言葉で何か相手に納得してもらおうという気力があまり湧かない.

それは「伝えたいことを自分の言葉で伝えるより本を読んでもらった方が早い」という気持ちが

わずかにはあって,これを掘り下げると「”自分発の”自分の伝えたいこと」が日常の読書を

ベースに構築されたものであること,加えて「自分から”思い通りのコミュニケーション”を立ち上げる」意思が

極めて希薄であることが想定される.

まぁ「草食なのね」と一言で済むのだけれども..


さて,去年を振り返った実質があまりないように見えてそれでも気が済んだのは確かなので,

そろそろ今年の抱負等に移ろう.

社会人になると日々の変化が乏しいことはもう分かった.

もちろん職種にもよるけれど,きっちりと仕事をこなしていればこそ日々の変化は乏しくなる.

それを休日に目一杯遊んでメリハリを,というリズムの付け方はもちろんアリである.

が,もう分かりきってはいるが,僕はそれとは異なる位相でリズムを付ける.


日々の変化が乏しい理由は,実際分けられるものではないが要素として2つある.

簡単に言えば入力が小さいか検知系が鈍いかである.

お手軽なのは「入力を大きくする」方だと思われがちだが,

そのお手軽の意味は「検知系の存在を無視できる」ことだ.

両者は分けられないと言いつつも,少し考えれば原理的には

「入力を大きくする」のと「検知系の感度を上げる」ので同じ結果が得られることは分かる.

原理的にはそうだが実際はどうなのだ,と言われると僕に自信はないので,

とりあえず「自分を被験者にして実験」をしているのである.


つまり「今年も変わらず本を読みまくる」ということなのだけど,

(それで充実が得られるとして)何がいいかといえば,とにかくお金がかからない.

必要なところではバンバン金を使うという点で僕はケチではないはずだが,

多くのものに「必要性を見出さない」という認識レベルでは吝嗇なのだと思う.

そうしてどんどんお金は溜まっていくのだけど,貯めたいと思って貯めるのではない(だから「溜まる」のだ).

そして嘘だと思われるかもしれないが,

「今溜まってるお金が急に価値を失っても何の痛痒も感じない」ようになれればいいなと思っている.

内田樹の言う金持ちの定義は「お金に頓着しないでいられること」であって

(「健康のことを気に揉まずに済んでいる人が”健康な人”である」と同じ論理),

それに従えば金持ちかどうかと所有資金量とは全く関係がない.

ということで,その意味で僕はずっと「金持ち」でいられたらなと思う.


話を戻して(と言って戻す話があるのか?),

まあ会社でお荷物にならないようしっかり仕事はして,

でもプライベート(というか「一人の時間」)はしっかり確保して「考えること」を軸とした日常を過ごしたい.

で,気が向いたら散歩部の活動をしたり何かよく分からない流れを起こしたりして,

それに自分で巻き込まれてテンパるのもたまにはいいかな.


毎年同じことを言っているかもしれないけれど,

今年の心掛けを羅列しておこう.

 「考えることを諦めない,でも身体の言うことは聴く」
 …これが矛盾だと思えたら何かが極端になっている.
  考えるのも肩肘張らずに,しかし快感に溺れることもなく.

 「場の雰囲気に敏感になる」
 …誰かといる時に限らず,街中でも山の中でも,どこにいる時も.
  「空気を読む」もこれに含んでいるけれど,「遂行的KY」を恐れない.
  何かといえば,「空気を読んでも”読んだ通り”に行動するとは限らない」である.
  (巷で言われるKYとは「認識的KY」のことである)
  都市では鈍感にならざるを得ないというのなら,都市には近づかない.
  一気に敷衍すれば「何をしたいか」ではなく「どう有りたいか」を優先する.

 「来る者拒まず、去る者追わず」
 …これはもう言い飽きた.
  ので今年は加えて,「自分にそれと分からないように流れをつくる」作法を身に付けてみよう.
  前半部分の意味するところは,自分がプレッシャーに弱いということ.
  それをプレッシャーに強くなると言わないのは,これは僕の多分な偏見かもしれないが,
  プレッシャーに強い人は大体が「鈍感」なのだ.
  このあたりはよく分からないので深くは掘り下げないでおこう.

このくらいかしら.

あとは,いつも健康でいられたらと思う.

不健康になって健康のありがたみを知るのはいいのだけど,

不健康な時の思考がいかに惨憺たるものかはもう何度も経験した.

(それを考えるとニーチェは凄いなと思ったり…まだ全然読んでないですが)

だから不健康な時は(それでも色々考えてしまうので)考えたことに重大な意味を与えないことにした.

 人が何かしら不幸な時,その人がどんなことを考えようと「今ある不幸から脱したい」思いが

 その思考内容を侵食しているのであり,たいていの場合は思考の射程が極端に短くなっている.

  例えば風邪で寝込んでいる時に「会社を辞めたい」と思ったとして,

  その思いは間違いなく正直なのだけど,だからといって誰も会社を辞めたりはしない.

 すっ飛ばして言うけれど,「思考の射程を延ばす」ことは「個人に留まらず共同体を思う」ことにつながる.


うん,総括すれば「外部に開かれた思考を紡いでいく」ということで.


ではでは,今年も皆さんよろしくお願いします.

chee-choff
# by chee-choff | 2012-01-02 14:56 | 思考 | Trackback | Comments(0)
紅白を見ていての感想が,

「松山ケンイチが笑い飯にしか見えない」

の一言しか思い付かないままだらだらと大晦日の夜を過ごし,

途中で卒業アルバムを見ようと思い立ち,

いつも高校のを見てるから今年は中学のを見ようと思い(なぜか小学校のは行方不明),

同学年の旧友を眺めていて「あーいたなぁこんなやつ」と嘆息すること多数.

しかし(少なくともクラスメイトになったことのある人の)顔と名前はバッチリ覚えていて,

その声まで再現できるのだけど,その人に関わる出来事が何も出てこない.

既に固定化した印象の強い出来事はいくつかあって,でもそれが登場人物を思い浮かべて

はじめて小学校だったか中学校だったかが分かるところに少し不思議さを感じる.


 体験が記憶としてそのまま残らず,意識化しにくい形に変わって身体の底に沈んでいる.

 僕は昔からたいへん寡黙だったらしいが(実家に戻る度に祖母がそう語ってくれる),

 僕の記憶というのは意識化しにくいのではなく,言語化しにくいのかもしれない.

 そして意識化のしやすさとは実は言語化のしやすさなのかもしれない.

 とすれば,「昔の記憶があまりなく寂しい」と自分の過去について僕が思ったのは

 言葉に触れる機会がぐんと増えてからのことだった(だから学部4回生頃か)はずだが,

 あれは「記憶を言葉に表現することができない」ことを嘆いていたのだろうか.


 言葉を使わずとも,昔の記憶が今に息づく瞬間を感じる手だてはある.

 そしてその手だてを導くことができるのは言葉であることを僕はもう知っている.

 言葉を信頼することで,言葉で表しきれない自分を信じる.

 言葉が,そして言葉と共にある人間が,そのアクロバシーを体現できることを僕はもう知っている.



記憶に残っていた同級生の顔とアルバムに載っている当時の顔との差を楽しみ,

みんなが中学生に見えないのは自分のアルバムだからだろうか…

などと物思いに耽っていると,いつの間にか時計は23時を過ぎていた.

大急ぎで着替えて防寒対策を身体に施し,運動靴を履いて外に出る.



 今年の大晦日はあまり寒くないな.

 空は全国的に曇ると言っていたが,視界の所々に星が見える.

 往復とも山道を歩こうか.


変わったところといえば,

山道の入り口近くの竹籔が切り開かれ,新しい家がいくつか(といっても数十件)建っていた.

そういえば散髪屋のおっちゃんも「人がどんどん増えている」と言っていた.

大阪・京都の両都市圏に電車一本で通えるベッドタウンとしてここらは住み易いと聞いたことがある.


山道は去年と変わりなくあった.

曇っていて月明かりが弱々しく,自分の歩いている道の起伏がほとんど見えない.

どこに段差があったか,どこから舗装されているか,といった道の特徴を,

そのパターン変化に足裏が触れて初めて思い出す.

歩くのが年に1回ではさすがにそこまで覚えられないらしい.

ただ経験から醸される安心感ははっきりとあって,

調子に乗って上を向きながら歩くと幾度か地面の凹凸に足をとられた.


山道の途中で参拝者のグループに追いついたのでゆっくり歩く.

家を出た時刻からするとぎりぎりだったはずだが,もう諦めて時計(携帯)は見ずに後ろをひっそりついていく.

「ここ段差あるよ,気ぃ付けな」

おじさんが母親の後ろを歩く小さな女の子に声をかける.

会話を聴いていると年輩方と親子連れは他人同士のようだ.

女の子の歩みをじっと見守り,声に気配りを隠さないおじさん.

「優しいおとな」だと思う.

 「大人には3種類いる.

 優しい大人はめったにいない.

 優しくない大人には近づくな.

 いちばん危険なのは,どっちでもない奴らだ」

 たしか『優しいおとな』(桐野夏生)で,双子の少年は主人公にこんなことを説いていた.


新年には間に合わないと途中から諦めていたが,

石清水八幡宮の敷地に入り,休憩所を見渡せる砂利の敷かれた広場に着いたところで0時を迎える.

どちらかといえば間に合ったと言ってよいタイミング.

放送が流れ,拍手がちらほらと起こり,新年の挨拶が入り交じる.

礼を交わす男女も何組かいたが,ある向かい合ったカップルがふと目に留まった.

人混みから離れて立つ二人は2メートルほど離れていた.

頭を下げる仕草に落ち着きがあり,表情は見えないが二人で柔らかな沈黙を共有していた.

見ているこちらも心が安らいだ.


参拝者が増えると予想されたのか,本殿へ通じる参道を仕切って順路が作られていた.

確かに人は多かったが,特に去年より増えたとは思わなかった.

長く立ち止まることもなく南総門をくぐり本殿の見える位置までたどり着き,

やはり賽銭は入れずに参拝者の観察を始める.

それが習慣付いてしまったのか,去年や今年について思い巡らすこともなく,

すぐに背景に溶け込んでぼーっとする.


色んな人の顔が,その表情が見える.

誰かと一緒にいる人も,独りでいる人も,周囲を見渡すことはない.

遠くに目を向けるのは,遠くに知り合いを認めて手を振る高校生や

母子の歩みの遅さを何ともなしに見つめる父親.

視線の遠さからして僕は異質であったが,居心地は特に悪くない.

 異質(特異点)が目立つ場合と目立たない場合がある.

 人々が周囲への注意を欠いていれば,異質は目立たない.

  人々が周囲への注意を欠くのは,個々に満たされているか,または個々に余裕がないか.

  両者の違いが顕れるのは,人々の間で,または人々と異質の間で衝突が起きた時.

  一方で人々が周囲に気を配るのも,個々に満たされているか,または個々に余裕がないか.

  両者の違いが顕れるのは,人々の視界に異質が捉えられた時.

 異質のままでいる精神の強さに憧れ,そして憧れでなくなった自分には,

 「時に”人々”になって異質を外から眺めるしなやかさ」が足りないのだと思う.

 つまり傍観者でいいと思っていた自分の視界に,まだ自分自身が入っていないのだと思う.

 そのしなやかさを獲得する第一歩として,いったん傍観者の視点を手放さねばならない.

 そして手放した自分の行く末を,先の見えないまま,信じなければならない.

  きっと,戻って来たいと思う場所は,戻るべき場所ではないのだ.


本殿の外周をひとまわりし,入ってきた門をくぐり出て,焚き火にあたる.

冷え切った腕から先の暖をとりつつ,ふと思い出して右目で火を見る.

火が,赤々と盛る炭が,なんだかリアルに見える.

なんだか熱そうだし,現に熱い.

しばらく見つめ,視点を左目に戻すと,しかしなんだか「帰ってきた」気がした.

ふむ,やはり右目が見るのは「夢」か.

 夢がその姿をはっきりさせてくると,現実は霞むのか? 

 それとも,より強度を増すのか?

 現実と夢の関係が,そのどちらかを決めるのだろう.


恒例の缶お汁粉を外の自販機で買い,

しばらく両手で弄んでから飲む.

缶の側面,アサヒの銘柄の上には「老舗の味を再現」とある.

これは缶で飲む状況も含めての老舗の味だろうか.

 もしそうだとして,この缶お汁粉をお椀にあけて飲んだ時に,

 缶のまま飲んだ場合より美味しくなかったら面白いなと思った.

 やはり味というのは食べ物と食べようとしている人の相互作用なのであって,

 「缶ジュースが”本物”より美味しいはずがない」という先入観を外せればそれは実現可能だろう.

  新商品がひっきりなしに生まれることで,こういった視点は失われていく.

  この視点が「自分の仕事の存在意義を疑う」,ひいては「自分の存在への疑問」に至るとしても

  (それに薄々気付いているからこそ誰も考えない),やはり寂しいなと思う.

   哀しみの先に喜びがあり得ることを知っていて,なぜニヒリズムを嫌うのか.

   感情と思考は相容れない? それを決めるのは思考ではなく,感情なのに.

  
帰りも山道を歩く.

前後に参拝客がいて,足下の明かりには困らなかった.

「下りたらホームセンターに寄ろう. 洗剤と…」

携帯のライトを手にした若い女性のペアが,ゆっくり歩く僕を横から追い抜く.

ライトを忙しなく動かし,会話も止むことなく足早に下りていく.

そこには「あるべき気配」がなかった.

 ライトによって周囲の風景が明滅し,周波数の高い音波が飛び交ってはいたが,

 それら以外に「二人の女性がすぐそばにいる存在感」を感じ取ることができなかった.

 密な竹籔に囲まれた闇の中で彼女らが異質であったのは確かだが,

 あるいは彼女らは「人の気配を消した闇」として周囲に同化していたか.

 …すれば,自ら闇と近しかったはずが,その「一体感」に慄いた僕はそこでも異質であったか.


山道を下りきり,行きに目にした新築の宅地周辺を歩いてみた.

去年の大晦日はここらは全て竹薮だったのだから,建って半年も経たないだろう.

それにしてはどの家も人が入っている.

隙間の多い庭や蔦壁(フェンスに蔦を絡ませるもの)が新築の象徴に見える.

建家や表札はどれも個性的で,窓の形・配置にもモダンなデザインを感じる.

シムシティ2000(Windowsの都市育成ゲーム)をやり込んだ者として,
 
この界隈のこれからの発展を楽しみにしておこう.



山を下りてからもあちこち散歩していていたが腕がまただんだん冷えてきたので,

途中からいつもの道に合流して足早に帰途につく.

全く時計を見なかったのだが,家に着いて見てみると1時半を過ぎていた.

ベンチに座ったのは缶お汁粉を飲んだ時の15分程度なので,

かれこれ2時間以上は歩いたり立ち止まったりしていたらしい.

 ブックオフ通いに加えて在宅天狗,それに散歩部まで始めたものだから一段と脚が鍛えられたのだろう.

 体が冷えただけでそれほど疲労を感じないところ,とりあえず健康ではあるようだ.

早々に湯船につかり身体を暖め,特に何を考えるでもなくぼーっとし,

水を少しだけ飲んで就寝.


年の変わり目をほとんど意識しなかったなあ…
# by chee-choff | 2012-01-01 21:03 | 思考 | Trackback | Comments(0)
僕が読書に限らずふつうに生活するにおいて念頭にあるテーマがあって,

それは固い表現でいえば「身体性の復権」である.


内田樹を読み始めてから僕のブログに「身体性」という単語が頻出するようになったのだが,

言葉によって賦活されるものではあれ身体性を言葉で捉えるのは非常に難しく,

「脳は無限だけど身体は有限」という氏の言葉は総論であって,

各論では「どんな言葉で身体がどう反応するか」は人によって千差万別である.

 (個人の身体経験と言語活動の相互作用が有限であるとはイメージしにくい.

 あまり厳密に考えず「法則性を捉える」ことを主眼に据えるべきなのかもしれないが.

 うん,やはり「他者との身体感覚の共有」と言うならそう考えなければ話にならない)

自分で書いていて既に混乱しているが,要するに身体性は簡単に言葉で表現できるものではない.

けれど,幼少期に触れられる身体経験が確実に減っている現代においては,

「言葉による想像」から身体性を立ち上げる仕組みの方が現実味がある.

(本当は,というか過去においては身体にしっかり刻み込まれるだけの経験を小さい頃に積んで,

 それを言葉を細やかに扱えるようになってから言語化するという流れだったのではと想像する.

 ・幼少期の経験とは田んぼや原っぱや小川などの「手つかずの自然」の中での体験のこと.

  養老先生なら「きちんと手入れされた自然」と言うかもしれないが.

 ・その成長後の言語化の機会とは例えば情報社会に取り込まれて感じる身体の違和感に触れた時に訪れる)

とはいえ,行動力のある社会人なら稽古やサークルに参加して身体性を引き出す機会を自分で作るだろう.

だからここで言っているのは僕みたいな「出不精だが身体性に興味がある人間」と,

「そもそも身体に大した注意を払わない人間」(こちらが大多数だろう)を前提としている.


+*+*+*


…グダグダ中学のアルバムを見ながら紅白を聴いていたらけっこうな時間になってしまった.

上の書きかけはまあおいといて(多分続きは書かない気がする),

さっそく準備をして今年もはちまんさんにのぼってきます.

寒いけれど歩くうちにあったまってくることでしょう.

ちょっと(アルバムのせいで)頭がタイムスリップしてるけどどうなるか(まあどうもならんでしょう).


ではではみなさんよいお年を.

m(_ _)m 23:15


+*+*+*


25:45

戻ってきました.
腕が冷えた…ぼーっとした時間が思いのほか長かったようです.
特に何もなかったけれど,明日何か書くと思います.
ではとりあえずおやすみなさいー
# by chee-choff | 2011-12-31 23:15 | 思考 | Trackback | Comments(0)
2011年はどんな年だったか.


と言って,「考え方」ばかり考えてきた自分には,

当たり前とされる問いの立て方に安穏とできない回路ができてしまった.

だからなんだといえば,「一年ごとに特徴付けて何になるか?」という疑問が,

「ゆくくる」を書こうとする傍から立ち上がってきて面倒だなと思う.


意味など何もないと言いたいのではなく,

意味があるのならその意味をきちんと把握した上で考えた方がよいと思う.

そうでないとその行為が上滑りして,何も残らず全て流れて行ってしまう.


「一年ごとに特徴付けてアルバムにしまう」のは,全てを水に流したいからかもしれない.

 今年は良いことも悪いことも沢山あったけれど,来年は心機一転頑張ろう.

 「君子豹変す」「朝令暮改」「心機一転」とぱっと思い付くだけでも「水流し作法」の言葉はいくつかある.

 (そういえば今朝か昨日の朝日社説のタイトルにも「首相は豹変すべき」とあった)

過去を水に流すのは,学習機制を削ぐというマイナスにもなり,過去の失敗に囚われないというプラスにもなる.

日本文化の伝統的な作法としてのそれは,後者を生かしながら,前者の発現を別のフェイズで抑え込む,

ということをしていたと思う(という印象).

でも,昔からずっと同じように水に流していて,プラスとマイナスの効果がそのまま維持されるか,

と考えればまあそんな筈はない.

つまりプラスとマイナスのウェイトがズレてきていると思うのだけど,

なぜそれがそのまま良しとされる(←特に指摘されない=「まあいいや」)のかといえば,

ここでいう「プラスとマイナス」の価値評価基準が昔のものだからだ.


当たり前だけれど,人は何かしらに(自分に,家族に,共同体に,国に…)良かれと思って行動するわけで,

仕事をするにも会話をするにも,明文化できないレベルを含めて目的があり,

その目的を括れる印象の名は「kaizen」である(マータイさん哀悼…あ,あれは「mottainai」か).

 たとえ「誰かを不幸に陥れる」という行為であっても,

 それは復讐心の達成あるいは自己精神の安寧化という「状況の改善」が目的だ.

だから主体的な視点に限れば誰も自分が悪いことをしているとは思わなくて,

そこにふっと影が射すのは他の視点(特定の他者の視点や常識・ルールなど個を離れたもの)が混じる時である.

…と言ってみたがこのモデルに当てはまる人は(日本人には?)あまり多くなくて,

実際は主体的な視点が「影そのもの」(=実体がない)になっている.

つまり(「ツマリよ回れ」),自分の判断だけではうっすらしていて頼りなく(そこには判断の可否もない),

他の視点をバックに据えて(あたかも太陽のように),やっと憂いが消える.

ちょっと話を戻せば,だからこのような人が多数を占める社会では,プラスとマイナスを決める実効力は

個人にはない(と個人は認識している).


さらに話を戻せば(なんでこんな話をしてるんだ…),そのプラスとマイナスの価値判断の変化の要因に,

「想定できる射程の長さの変化」があると思う.

これ以上掘り下げると一気に話が散逸してしまうので単語だけ並べると,

地域共同体の解体→家族の解体→個人主義の流れ(例えばテレビに始まる「一家一台から一人一台」)も,

今ここの欲望を満たすべきという刹那主義も,

子どもが学校で「子ども自身の価値判断に基づいて」何を学ぶかを決定する「学ぶ主体の自主性の尊重」も,

すべて「想定できる射程をいかに短くするか」に血道を上げた結果とも言えるし,

何が人々をそうさせるかと言えば資本主義の枠組みでしょうね.

 資源の限界を知らずかつ身体性が濃く残っていた高度成長時代は,

 資本主義社会を突き進むと言って物質的にも精神的にも余裕があるためにモラルが保たれていたが,

 環境問題が前景化し,脳内事象の実現(養老先生の言う「ああすればこうなる」)が最優先事項となった

 情報社会ではモラル(例えば今は悪く言われる「弾力的な措置」とか)の存在余地がなくなり,

 ルール原理主義への違和感が薄れてくる(もちろんやりすぎて法から逸脱すれば捕まるが).



どんどん話が大雑把になってきたので閑話休題.

何の話をしていたのか…そうだ,今年の総括をしたいのだった.

その総括の意味も考えろよと自分に言い聞かせる所から思い切り脱線したのだけれど,

そうすね,じゃあ「2011年を水に流すつもりはない」ということで話を続けよう.


社会人になってもうすぐ2年が経とうとしている.

一つの会社に勤めていて個人の生活に劇的な変化が訪れる理由はといえば,

社内事情の変化(昇進などの配置転換や転勤)か,その人自身に生活を変える出来事が起こった時だろう.

後者で想像できるのは結婚か身内の不幸(これは実家通いの人に限られるかもしれない)くらいか.


同期で今年結婚した人はけっこういる(同期同士も少しばかり).

院卒の人間が多いせいもあるが,年齢的にも結婚適齢期なのだろう.

一時期は「震災の影響で結婚するカップルが急増した」などと騒がれたが,

過ぎてみれば(そう,自然とこういった言葉が口をついて出てくる)そんなことはなかったように思う.

相変わらず自分はそういった話とは縁遠く,でも教育問題に興味があるというのは

(自分の子どもの話に結び付くし)結婚したくないことはないのだろうなと,

しかしそれを他人事に言えるところが大変微妙なのだけど,

結局は相手がいなければ何も始まらないのであり,それを縁任せにしているところが

「そういうの全く興味ないんでしょ」と同期から言われる所以でもあり,同時に

「でもいつの間にか結婚してて”子どもができました”とかいきなり言いそうね」とも言われる不思議さである(?)

結婚観を語る気はないのだけど,この手の話については

「感度は上げているが(実生活で)自分から言い立てないことを奥ゆかしさと見なしている」

というところで手を打つことにしよう(つくづく乙女だなあ…).


何が言いたかったといえば,「今年は生活に大きな変化はなかった」の一言である.

それは仕事もプライベートもひっくるめて社会人として安定してきたと言い換えられる.

かといって漫然と過ごしてきたつもりはなく,

ある程度の緊張感をもって(仕事はもちろんだが)読書に励めたと思う.


仕事について少し触れると…今は過渡期で,来年も動きが激しそうだ.以上.

仕事とプライベートの分別については,会社で少々淡泊に振る舞っていて(理由は社内事情),

それがプライベートにも反映されて「なんだか落ち着き過ぎてる人」になっている感がある.

 はじけて遊ぶ気がないオーラが伝わっているのか自分に近づく人が減ったことが一つと,

 あとは僕をそんなに悪く思っていない人は自分から近づいてこないことが一つ.

 後者はそれはそれで少し寂しくはあるが,僕の意をきちんと汲んでくれた結果でもあって「正解」.

 だからたまに自分からなにかを誘った時にびっくりする人とびっくりしない人の差がなんだか嬉しい.

まあ,場の雰囲気に敏感でおりつつ,流れをつくったり流されたりしていれば,

何かが始まることもあるだろうし,終わることもあるだろうなと思う(なんという意味なし発言…でもないんだけど).


読書の話に移ろう.

読書時間はこの一年で大きく変わったとは思わないけれど…

あでも後半に仕事が忙しくなって少し減ったかもしれない.

ということでソーシャルライブラリから読書記録を拝借して載せてみる.


ジャンルを細かく分け過ぎて分類タイトルが見にくいが…

去年の94冊に対して今年は119冊読了(月10冊届かず)なので去年より読書時間が増えているのは確実.

でも今年後半の読了数が少なめなのは,仕事のせいもあるだろうけど,

読書スタイルが変わったことも影響していると思う.

いつか書いたことだけど,読了数を逐一数える習慣が消えた.

このチャートもずいぶん久しぶりに参照してみたのだった.

(それでもマメに記録をつけているのは習慣化したのが大きいが,きっとこういう時に俯瞰できるのが楽しいから)

ノルマ的な価値観が払拭されて,遅読をあまり厭わないようになった.

何を今さらと言われそうだが,読書が生活に定着したのだと思う.


統計データをいじるというのはあまり面白くないね(笑)

数字で分かるからわかりやすいのだけど,今の自分にあまり興味がないのだったと書きながら気付いた.

そういえば今(@年末の実家)父の本棚を漁っていて寮に持って帰る本を選別しているのだけど

(そのために空の旅行鞄を持ってきたのだ笑),タイトルで惹かれる洋書の翻訳本がたくさんあって,

でもパラ読みしてみると「どうだ」と言わんばかりの統計データ羅列本が結構あって,

やっぱ欧米の人はこうゆうの好きなのかなとか,そういえば最近翻訳本全然読んでないなとか思ったり.

そんな本の中に『木を見る西洋人 森を見る東洋人』なんてのがあって「これだよこれ」みたいな(何が).


なんだかこうして本に埋もれていると社会人生活なんてどうでもいいや,と思えてきそうな気配があって,

それは僕が一生を読書だけに懸けても読み切れない膨大さが個を希薄にしている所もあるのだけれど,

じっさい僕が日々読書をするうえでの緊張感は会社人であることによって保たれているという実感はある.

だから,今すぐ会社を辞めて晴読雨読の生活をしたいという願望がゼロではないけれど

その生活が社会(多分「多くの人々」)とのつながりの無さによって堕落極まる想像が簡単にできて,

自分自身に現実的な俯瞰の目を向ければその生活はしょせん都合の良い夢物語でしかないことが分かる.

(でも実はそれが「叶わぬ夢」であることが大事であり,

 荒唐無稽でなくどこか惹き付けられる「物語」であるところが,今の生活を成り立たせているかもしれない)

その緊張感の出所を詳しく述べようとすると危険な香りが漂い始めるのでこの件については一言だけ.

「会社人間にはなりません(なれません)」.

(そういえば新人の頃は「俺達は兵隊だ」とカッコイイこと言ってた同期と10月だかに飲んだ時に,

 「会社辞めても生きていけるようにしとかんとな」って一体何があった(笑)

 まあ,人を養うというのも大変だからね(ごほんごほん) )



なんだか話がぐんと戻ってしまうかもしれないけれど,

一つ思い付いたことがあったので書いてみる.


ある学校の教室で「よく考えなさいよ」とクラスのみんなに言った先生を前にして,

彼が全然考えているように見えない生徒が素直にとる応答には2種類あって,それは

 「”考える”必要なんてないんだな」



 「”考える”って本当はどういうことなんだろう」

である.

この応答をとる前の「全然考えているように見えない」という判断は,

その生徒が”考える”ことについてあまり知らなくてもできる感覚的なものである.

そして処世術に長けた子どもは前者のように考え,

何かしら偏った子ども(と大雑把に言ってしまうが)は後者のように考える.

そして恐らく今の社会で有益と見なされているのは,

前者のような判断を何の疑問もなく下せる子どもなのだ.


「ゆくくる」の最初で「地震は自然,子どもも自然」と並べて言ったのは,

どちらも本質的には「(大人たちが)制御できないもの」だからだ.

もっと科学技術が発達すれば制御し切れるとか,教育制度や施設が整えば制御し切れるとか,

そんな大前提から履き違えた無邪気な発想が何を引き起こしたか.

もちろんその責任を一個人に押しつけることができるわけがなく,

それが意味するのは「待っているだけでは何も変わらない」.


…「人の口を借りる」とするする言葉が出てくるのはやはり本当. 18:43

# by chee-choff | 2011-12-31 18:43 | 思考 | Trackback | Comments(0)
雑記から話が全然進まないので気分転換に項を改める.


年末なので一年を振り返る.

今年は何があったか.


まあ何をおいても,東日本大震災でしょうね.

個人的な体験としても大きかったし,

やはり映画で見たような津波の恐ろしさをその目で(といってテレビだが)見たこともある.

実際に起こったのだ.


が,東北の日本海沿岸から離れて住む人にとっては,

ハリウッド映画で起ころうが日本で起ころうが「ブラウン管の中の出来事」であることに変わりはない,

という見方もできないことはない(ブラウン管はさすがに古いか).

 これは「テレビの中の話だから俺には関係ねー」という姿勢を肯定するわけではなく,

 状況を見ればそうだという話.

人前でそんなことを言える人間はさすがにいないと思うし.

そのような考え方自体が不謹慎であると大体の人は感じているのだが,

それにもかかわらず「みんな本音ではそう思っている」のである.


テレビや新聞で報道されるニュースを「世の中の動きにキャッチアップするため」に見る.

それはそれで間違いはなくて,ではなぜ世の中についていく必要があるかといえば,

「ニュースの出来事(=世の中の動き)と自分の日常が直接つながっているから」ではなく.

「みんなに置いていかれたくないから」である.

マスコミに所属する(実地で取材している)人間ですら後者に含まれる.

その例外は「各々のニュースの当事者」しかいない.

 だから例えば関東大震災が起こって神奈川在住のサラリーマンに訪れた生活の変化は,

 夏前に計画停電が幾度かあったこと,節電が叫ばれて会社の電力管理が厳しくなったこと,

 秋頃まで飲み会がほとんど開かれなかったこと,といった程度のことである.

 (被災地ボランティアは日常生活とは外して考えた方がよいと思われるのでここにはカウントしない)

 そこには日常生活のちょっとした支障が生じただけで,「震災による直接の痛み」は微塵もない.

ニュースでは日々,震災関連の報道がなされている.

新聞では一面から外れたものの,震災での死者数と行方不明者数の集計が掲載され続けている(朝日).

その報道を毎日目にする僕ら「部外者」は,油断すればどう思ってしまうか.

「ああ,大変だな」と.

震災の影響が実生活と結び付かない限り,他人事なのである.

上で「みんな本音ではそう思っている」と言ったのはこのことだ.

倫理道徳的な話を抜きにして,震災のニュースを他の「世の中の出来事」と同列に眺めた時に,

僕ら部外者は震災を無かったことに出来てしまう.

そして最も重要なのは,それが生活を着実にこなし自然に振る舞うことで達成される点である.

(日常を片手間に過ごせる人間は,社会人にはほとんどいない)

じゃあボランティアに行けばいいのかといえばそんな単純な話でもなくて,

ボランティアは(大多数の社会人にとって)あくまで「非日常」なのだ.


倫理や道徳だけで人はどこまで衝き動かされるか.

ここでいう倫理や道徳とは,特定の他者に対してもつ意識のことではなく,

つまりここで人とは「一般大衆」を指している.

 例えばマスコミが総出で盛り立てている絆という言葉「だけ」で,人はどこまで衝き動かされるか.

 絆が叫ばれなくなったら,それで終わるのか?

 あるいはずっと叫ばれ続けて,マンネリに陥らないのか?

 あるいは,それがマンネリに陥らないためにする努力が犠牲にするものとは何か?

 …少し前にも同じ話をしたのでこれはもう続けない.

言いたかったのは,「部外者が震災を内に留めるには努力を要する」ということ.


その努力が必要であるかどうかは,個人の価値観に因る.

個人の倫理・道徳観は,個人の価値観に含まれている.

つまり実生活においては,倫理・道徳観を天秤にかけなければならないのだ.

これは不謹慎でもなんでもなく社会の仕組みがそうなっているのであり,

「何よりもまず自分の日常を蔑ろにしてはいけない」と前に震災本の書評に書いた意味はここにあるのだと思う.


僕自身は,その努力は必要であると思うが,理由がある.

「震災を内に留める」そのことが目的ではないからだ.

ではなぜ「震災を内に留める」必要があるのか.

…これは僕自身の言葉ではまだまとまっていなくて,

それでも書こうとすれば養老先生の言葉をなぞるだけになると思われる.

そんなこと構わないから書けばいいじゃないかと言われそうだが,

端的に「それじゃ書いてて面白くない」ので,今は書かないでおく.

(ここまで真面目腐って書いてきたけれど,実は本記事の,というか本ブログの主旨がそうなのだからしょうがない)

一言だけ言えば,震災とは「自然」のことである.

養老先生の言葉を借りれば,子どももまた「自然」である.

…二言になってしまった.



さて,震災の話はこれくらいにして,

実生活のほうを次に振り返ってみるとします.

本の話ばかりになりそうだなあ…


BGMは最初は去年と同じく「凛として~」のneko氏ピアノ演奏だったんですが,

途中からうみぬこPのインストに切り替えています(いつもながらお世話になりますm(_ _)m ).

ソプラノ聴いてると吹きたくなるね(じゅるり).

まったり.

【ニコニコインディーズ】秋林に君を想う【インスト曲】
# by chee-choff | 2011-12-30 22:54 | 思考 | Trackback | Comments(0)
今年も実家でゆるりとしています.


年末に特に予定はなく,年始に一つ.

区切りを意識するなら本当は年末が良かったのだけど,

年末年始を「年の境目」と捉えればどっちも同じ.

「気分でふらふら」の気分の醸成の仕方も慣れてきたようで,

話したいことを話せる時に話せればいいなというかつて抱いていた願望が変化してきている.

人と話をする時に「前もって内容を準備していく」姿勢が自分には合わないようで,

話したいことがあった時に「その内容を相手と話している場を想像する」ことだけは予めしておいて,

実際に相手と喋っている時にそういう雰囲気になれば自然と想像通りになるものだと思っている.

これが定着してくると「話したいことを話せる時に話せなかった」時に,

それを失敗とみなさず,「そうならないだけの理由がその時にあった」と自然に思える.

「(会話の)場への信頼」の一つの形と言えないかな,という今は実験段階.

 相手の話や,むしろ話し方(口振り,佇まい,目線,…)と接しているうちに,

 「この内容は今話すべきではないな」という判断が適切になってくることはあり得る.

 自分としては必要以上にそれを意識しているとは思うけれど,

 プレッシャーに弱い自分には「この話は今しておかないと」という意志も十分重荷になる.

 仕事上とか他人の利害が絡む場合はもちろんそんな悠長なことを言ってられないけれど,

 自分の対人関係に収まる話であれば要は「今(とこの先)の気分」が決定要因になる.

  「この先の気分」というのは例えば「後悔するかどうか」とか.

  そしてその気分には「相手が自分をどう思うか」も含まれる.

  もちろん自分の想像できる範囲内なわけで,相手からすればあってないようなもの.


実験というと軽く聞こえそうだけれど,自分を被験者として組み込む実験は当然だけど

自分が変わることを前提としているわけで,すると実験データを取る前と取った後での

解析者のスタンスが当たり前に変わってしまい混沌としてくるのだけど,

人間相手だからしょうがないし,そこが面白いのだと思う.


 という書き出しでどこへたどり着くか.

 今から散髪行ってきます.

 本当はまたストパーあてようと思ってたのだけど,

 珍しく本気で止めに入ってくれた友人がいたので.

 すっきりしてきましょうか. 12:53


+*+*+*


と言いながらすぐ帰ってきました.

何やら先客が新たに来たらしく,「3時に来て下さい」と言われた.

1時に予約したはずなのだけど…まあ予約した本人と認識されなかったか.


父親行きつけの散髪屋は大阪と京都の府境を越えてすぐの所にあり,徒歩3分ほど.

住宅街なので近辺は家やアパート・マンションしかないけれど,

土地がゆったりしているのか個性が家々にあって散歩していて飽きない.

普通の一軒家のような正面にエントランスがあって,

あれと思って横にまわるとアパートという洒落た建物が高台にあって,

住むならこんなアパートかなと思ったり.

 (状況が許せば「仮住まい転居主義」がいいなと思っている.

 「生涯賃貸宣言!」みたいな. でもこーゆーとなんかやーね笑)

近所をぐるりと散歩しつつ,年賀状を出してきた.

今年は(も?)自分から書くのは一枚だけ.

親が選んだ年賀状が空白たっぷりだったので,

ぎっしりコメントを書き込んでやりました(笑)

唐突で相手も迷惑するだろうけど,級友なので許してくれるかと.

 自分は昔からこんな人だっけな…よく覚えてないけれど,

 周りの視線を過剰に気にしてしまう性分はきっと全然変わってなくて,

 昔はその周りの視線の詳細まで気がいかずおどおどしていたのに対して,

 今はその方面への想像力を解放して勝手に納得できてしまっていて,

 その分自分の感覚に正直になれているのだと思う.

 「知らない(考えない)方がいいことがある」という聖域的概念を捨てたからだろうか.

 この話は大事なところなので後でまた考え直すとしましょう.

で,もらった分は(枚数の許す分は)きちんと返します.

 年賀状に対する意識もそういえば変わったなと思う.

 以前は(たぶん高校くらいから学生の間は)「なにかのきっかけになれば」という

 縦縞な(シマウマ?)思いというか「年賀状が相手に届くこと」自体に大きな意味を見出していて,

 それが昨日書いた時には「年賀状を書いている間にその人のことを思い起こすこと」が

 年賀状を書くことの一番の楽しみに思えて,「書くこと書いたし届かなくてもいいか」なんて思うから

 高校時代の名簿引っぱり出して住所を書き写しても特に不安はない.

 別に両者でコメントの内容が変わることはないのだけど,

 実はその変わらないことが「想像の中の具体的な他者に対する自分の姿勢」の一貫性を示していたりして.

 つまりその想像と実生活との折り合いの付け方が「極めて現実寄り」だという一貫性のことで,

 それからすると自分はまだまだ常識人なのだな,と(ホントかよ).


散歩しながら考えていた「ゆくくるトピック」をメモしておきます.

・森博嗣の(エッセイ)執筆スタンス
・自分の行動原理の「核」はどこにあるか
・空間の時間的把握

もちろん提示だけして触れられない可能性も大ですが…

では散髪(再)行ってきます. 14:53


+*+*+*


髪切ってきました.

何も言わなかったので文句もなにもないですが,

80年代風になりました.

うーん古いな…それだけですが.


…と,少し動画でニコニコしていたら晩ご飯の時間になっちゃいました.

てことで食べてきます.

うん,内容がもうついっただね.

まあいいや. 19:07

# by chee-choff | 2011-12-30 12:55 | 思考 | Trackback | Comments(0)
今日から会社は冬休みです.

+*+*+*

ウチダ氏ブログから再び(前は2年前).
自分用の抜粋なのでちと長め.

>>
ジャングルの中には「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」がそれこそ無数にあったはずである。
どうして「今はその用途や意義が知れぬ」無数のオブジェの中から、とりわけ「それ」が彼の関心を惹きつけたのか。
私は彼がそうやって拾い上げた「モノ」はそれからあとのある時点で、必ず彼にとって死活的に重要な役割を果たし、「ああ、これをあのとき拾っておいてよかった」と嘆息をつく、という場面があったのだろうと思う。
そういう経験の繰り返しを通じてしか、「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」の用途と実用性を先駆的に察知する能力は涵養されないであろう。
「どうふるまってよいか」を指示するマニュアルがない状況でも、「どうふるまえばいいか」を先駆的に知ることはできる
(…)
私たちの時代の子どもたちが学ぶ力を失っているのは、彼らの「先駆的に知る力」が破壊され尽くしたからである。
「学び」は、それを学ぶことの意味や実用性について何も知らない状態で、それにもかかわらず「これを学ぶことが、いずれ私が生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすことがあるだろう」と先駆的に確信することから始まる
学び始める前の段階で、学び終えたときに得られる知識や技術やそれがもたらす利得についての一覧的な情報開示を要求する子どもたち(「それを勉強すると、どんないいことがあるんですか?」と訊く「賢い消費者」的な子どもたち)は、「先駆的な知」というものがあることを知らない。
彼らは「計画に基づいて」学ぶことを求めている。
自分が実現すべき目的のために有用な知識や情報だけを獲得し、それとは関係のないものには見向きもしない。
おそらく本人はきわめて効率の良い、費用対効果の高い学び方をしていると思っているのだろう。
だが、あらかじめ下絵を描いた計画に基づいて学ぼうとするものは、「先駆的に知る」力を自分自身の手で殺していることに気づいていない。
先駆的に知る力」とはまさしく「生きる力」のことである。それを殺すことは緩慢な自殺に他ならない
2009年08月18日 ブリコルールの心得
>>

「用途の明確な道具」に溢れた現代では,迂回しないと「ありもの」として見えない.
それは意図的であらざるを得ないが,その姿勢はそもそも「ブリコルール」に反しないのか?
という自分向けの疑問きっかけ投稿.
(これはぱっと思いついただけで,他にも沢山あるはず)
「ゆくくる」でゆっくり考えてみようと思います.

キーワードはやはり「ブリコルール」.
# by chee-choff | 2011-12-27 21:28 | ウチダ氏 | Trackback | Comments(0)
ちょっと思い出したので.

前に同期と飲んでいる時に,
その場にいた3人とも猫が好きだなあという話になって,
そのうち一人は日常的に要所で「にゃあ」と鳴く方で,つられて
「俺も猫が好きというよりは猫だな(= I'm a cat.)」と言った傍から
「じゃあちひろさんも日常的に鳴くんですか?」と聞かれて,
「そりゃもう散歩してたら自然とゴロゴロ言ってますよ」
なんてその場の勢いでテキトーに答えてしまって,
さらにそのテキトー発言の詳細を追及されて
珍しく背水の陣的脳内フル回転を余儀なくされたのだけれど,
もちろん僕は鳴かない.
なんだか寂しい時に「にゃあ」とメールを送って,
「にゃあ」と過たず返してくれる友人が寮の同階に最低2人いるという
彼女の形成している社内親密圏が羨ましいなと思わないでもないけれど,
もちろん僕は鳴かない.

「僕も鳴きます」という発言は明白に嘘だとして,
しかし「僕は猫だ」という発言は本当である.
認知的な意味ではなく,遂行的な意味において.

そして言い訳がましいと思いながらマジメに考えてみたのだけど,
猫は「にゃあ」とは鳴かない.
猫が「にゃあ」と鳴いていると思っているのは人間の方であって,
猫自身は「にゃあ」と鳴きたくてそう鳴いているわけではない.
猫から見たら人間は歩いている時に「ぐもぐも」と身体が振動していて,
「ぐもぐもってあんた,もぐらじゃないんだから」と猫に思われているかもしれないのと一緒なのだ.
つまり,人が猫に,いや猫的になった時,その人は「にゃあ」とは鳴かないのである.

散歩中の僕はわりと猫的だと思っているのだけど,
何がどう猫的なのかについてはまた項を改めて考えてみたい.

+*+*+*

と書いてから別のことを思い出した.

ついこの前グループ内での忘年会で,
「京都弁って"〜しはる"っていう尊敬語があって,
 "〜していらっしゃる"をコンパクトに言えて便利なんですよ」
という話を僕がした時に,
「あれ,それ尊敬語なの? ただの方言やと思ってた」
と言われてショックを受けたのだった.
そのリーダさんが言うには「"ごわす"は丁寧語」らしく,
「ホンマかいな?そら普通の人は気付かんで」と素直に思った僕は
"〜しはる"が全国で通じると思っていた垢抜けない地方人なのであった.

ま,そらしゃーないわ.
# by chee-choff | 2011-12-25 23:25 | 社会人 | Trackback | Comments(0)
「セイント聖夜」って重複表現だよね.
あれ,違う?

じゃお笑いコンビっぽく「セインとカミュ」で.
あ,同一人物?

+*+*+*

くりすとますと
くすりとますと
くすりとまとす
りすくとますと
とりすとますく

なかまはずれは?

+*+*+*

聖夜に整理.
「整頓せいや」

…。

まぁ,今日はしません.
大掃除は28日に.
# by chee-choff | 2011-12-25 22:43 | ことばあそび | Trackback | Comments(0)

座り心地も抜群!(やめてー)
# by chee-choff | 2011-12-22 22:54 | 社会人 | Trackback | Comments(0)
はや年末.
去年は併読書の多くをなんとか年内に読了させて年の変わり目を意識,
みたいなことをした記憶があるが,今年はどうも難しそう.
散漫に過ぎているので中断する本をいくつか選んだ方がよいかも.

 読み始めたら読み終えなければ,というのは僕に言わせれば貧乏性で,
 「読み始めよう」と思った当初の心意気を無下にするのが単にもったいないだけ.
 変化し続けることを性分とするのなら読み始めてからの気変わりも大事にすべき.
 という対自説得口上です,このへんは.

それは随筆(小説以外をこう呼んでみてるけど,違うかも)に関してであって,
3冊読み回しを日常にしている小説の方はうまいこと年の境目で切り替われそう.

先日『ねじまき鳥クロニクル』の3巻を読み終え(大体1巻に1月かかった),
『名もなき毒』(宮部みゆき)にバトンタッチした.
本書はつい最近文庫化されており,「そろそろミヤベ本を」という思いと混ざって手に取った模様.
次いで『キラレ×キラレ』(森博嗣)を読了し,まっとうなミヤベ本と並走させるなら
少しヒネった本がいいかなあと本棚を眺め,『圏外へ』(吉田篤弘)を手に取った.
吉田氏の本は初めてで本書もBookOffで偶然手に取ったのだが(何に惹かれたかと言えば
ボリュームと装幀で,決め手は「脳内系小説」だったこと),今日読み始めたところ
文体はじめ色々と新鮮で面白い.

 そういえば活字中毒という言葉を久しぶりに使うのだけど,
 意識しなくなりゃもうそうなってんだわねという「不健康も健康のうち」みたいなもので(違う?),
 病状はといえば「活字密度の低いページを見るとうんざりする」かしら.
 ページ稼がんでいいからもっと詰め込めよ,みたいな.
 (でもそれで薄くなればいいかと言えば違って,同時に厚くもあってほしい.
  だからかなり分厚い本(京極氏著書のような)も今は厭わず抱え込んで読める)
 でも岩波学術文庫の窮屈さは読みにくくてやーね,という我が儘も一方にはある.
 なんだろう,活字密度が(程良く)高いとなんだか安心するから?
 読み終える時がちと寂しい,という思いも手伝っているのだと思う.

話を戻せば,この脳内系不思議小説には今までと趣向を変えた脳内BGMが良いかなあと思い,
ヘビロテ曲を聴き漁っているとぴったりなのを見つけた.

 NNIオリジナル曲 - アンティキティラの歯車

このぴったりがどうぴったりなのか,今後読み進めるうちに何か浮かべばまた.
# by chee-choff | 2011-12-20 21:49 | 読書 | Trackback | Comments(0)
きまぐれ抜粋メモの細部をいじって書評に仕立て上げました.
…こんなんばっか(笑)


浮上せよと活字は言う
  • 橋本治
  • 平凡社
  • 945円
Amazonで購入
書評


# by chee-choff | 2011-12-17 23:20 | 読書 | Trackback | Comments(0)
唐突な始まりに,納得の自信の無さ,そして納得の呆気無い終焉.
恋は短し,恋せよ乙男(オトメン).
てのは嘘で,まあ落ち着いた方がいいと思う.

しかし俺に恋の仲介役を頼んでくるなんて,
いつの時代にも破天荒な人はいるものだと思う(誰だお前はw).

流れに乗るのが上手い人というのが,
自覚なしに自分で流れを作って「流されてるだけだよ」なんて放言してたりするのは,
なかなか罪作りだなと思う(誰のことでしょう?).

人に理解されることを諦めた時の推進力たるや,凄まじいものがあるな,とか.
でも進路はやはり螺旋状であって,一回りした後には何が見えるのかな,とか.
本質的に自然な出会いというのはやはり両者に運命を感じさせるのかな,とか.

十勝,渡嘉敷,蜥蜴郎,とか.

+*+*+*

「身に染みる想像」のバロメータとして種々挙げられようが,
そのひとつに「実現可能性」がある.
ふわふわと浮かんだ想像に「こうなればいいなあ」と色付けなどをして,
ふと冷静に考えると今の生活の延長線上にそのゴール(実現)が見えてドキドキしたりする.

そのような性質の補強を別のそれ(例えば「想像内容の切実さ」とか)と勘違いするととても面倒である
というこれは体験談.

そうそう,昨日同期と飲んだ時に話に出たけど,
「つり橋効果」とか「ボランティア・マジック」とか,
世には様々な「水増し現象」が溢れているわけで,
それを話に聞くのは興味深いとして,さて…

# by chee-choff | 2011-12-17 21:54 | 社会人 | Trackback | Comments(0)
 くらやみがこわいのは、なぜ?
 くらやみのなかにいると、なにもみえないから?

 なにもみえないのがこわいのは、なぜ?
 なにがでてくるか、わからないから?

 みえていないとでてくるものがわからないのは、なぜ?
 あるものはみえる、とおもっているから?


 みえるものは、ある。
 あるものは、みえる?

 ないものは、みえない。
 みえないものは、ない?

 あかりがあたたかいのは、なぜ?
 くらやみが、こわいから?


 くらやみがこわいのは、なぜ?

+*+*+*

『ねじまき島クロニクル』(村上春樹)もいよいよ終盤.

 「想像する」とは,見えるものを思い浮かべるだけではないと改めて気付く.
 とすると,視覚偏重と想像力の衰微は連関しているに違いない.

 ものが増え続けると,同じ感覚(器)のままではオーバーフローしてしまう.
 そのために感度を下げると,刺激が足りなくなる.
 不足した刺激分を補うべく,さらにものを増やす.
 そして再びの物質過多.

 このループに嵌り込むのは,受容サイドの感度調節という発想が抜け落ちているから.
 あるいは,このループが経済を成り立たせているから.
 ならば問う,経済は見えないが,「見えないものの存在を肯定する認識」の自覚はそこにあるか?
 自覚のない認識は抑圧となり,別の形をとって,やはり自覚を伴わず纏わりつく.
 簡単に言えば,「分かることばかり見ていると,分からないことの存在に気付かなくなる」.
 それは意識の上ではまったき幸福だが,
 変化を免れない人間がその幸福を維持するために必要な努力とは何だろう?
 かつては怠惰でしかなかったはずのその「努力」とは何だろう?

主人公は立ち向かう.
「虚ろな人」の助けを借り,運命という武器を手に,金縛りの解けたドアノブを回す.
# by chee-choff | 2011-12-15 23:50 | 読書 | Trackback | Comments(0)
>>
 世の中には多くの矛盾があるが,その矛盾は,継承と創造のように,対立したA・B二つの概念の両方ともが必要な場合に生ずるのである.そしてその矛盾を乗り越えるということは,Aかその反対のBかどっちかを肯定し,他は否定してしまうとか,一方を選択して残る一方には目をつぶるというのではなく,二つの矛盾したモノを同居させていくようにしないと物事はうまくいかないのではないか,ということである.(…)
 禅では,「二見に堕すな」と厳しく教える.一方を肯定し他方を否定することを二見(二つの見解.見とは信じたものとかイデオロギーのこと)と言い,それは堕落であるとする.継承することが創造することであり,創造することが継承することになるように,A即B,B即Aと実現するように事を行えと指導する.(…)
 一つだけ大切な注意だが,二見に堕すなといっても,二見はダメで一見はよい,というふうに固執すると,そのことがすでに「二見」対「一見」となって二つに分かれ,二見に堕してしまうことになる.だから十分な注意が必要なのだ.だから本当の一見とは,その一見にも固執しないことをいうのだ.この姿勢を「非」というのである.
森政弘『「非まじめ」思考法』p.63-64
>>

「二つの矛盾したモノを同居させていく」とは,交渉の場では「ナカとって主義」と呼ばれる.
一つの正義に従って結論を下すよりも,相反する正義同士(これはざらにある)をお互いが
譲歩し合い,妥協し合わせ渋々ながらも納得させる落としどころを見つける方が格段に難しい.
その解法として「win-win関係」よりも「三方一両損」すなわち痛み分けが有効な場合もある.
どちらが有効とみなすかは,交渉者の立場次第だ.
欲望の亢進を善とする,あるいは「成長戦略」なるものに何の疑いも持たなければ前者を選択する.
その逆もある.

…なぜか交渉の場を想定してしまったが話を戻せば,
「二見に堕さない」という禅の教えは無限の階層構造をしている.
少し前の併読リンクでワシダ氏著書を取り上げた時に触れた「臨床」がこれに関係していると思われた.

「二見に堕すのは堕落」と抜粋にあるが,これは「二見は手間を省くためにある」とも言える.
昔に思考し判断を下した事例と似た問題に居合わせた時に,その経験をもとに最小限の思考でその問題を解く.
これは学校などの教育現場における被教育者にとっては「学習そのもの」である.
言語は学習せずに扱えないものであり,そのことだけでも学習は生活上必須である.
が,学習とはすなわち「二見の姿勢の洗練」なのだ(ここで「二」という数字には意味はない).

学習する過程のどこかで,この事実に気付いた時に,矛盾の効用に気付く.
「矛盾とはその全てが解消すべきものであるとは限らない」と.
「世の中は矛盾に満ちている」と言ってなるほどそれは事実だと思われた時,
その事実にうんざりするのではなく「それは当たり前のことなのか」と涼しく了解する.
学習しなければ気付けないが,学習し過ぎては見えなくなる.
これも矛盾と言ってもよいのだがそれには少し違和感があって,
ここで矛盾とは「物事は単純ではない(=複雑である)」の言い換えであると気付く.

…臨床の話をしたいのであった.
前に「専門性を捨てる準備のあること」(@ワシダ氏)が
「上位の臨機応変」(=経験を活かしながらそれに囚われない)なのだと言ったのだが,
これらは「二見に堕さない」禅の教えと相通ずるのだな,と.

何か自分の生活において成立している法則のようなものがあって,
その法則が他のどのような場面で成立し得るのかに興味がある場合,
その法則そのものだけを考えるのではなく,
その法則と形を同じくする別の法則を思い浮かべてみる.
その具体的な「法則間の法則」が構造と呼ばれるもので,
様々な場面で当の構造が透けて見えることに気付いたならば,
その構造を内在している(自分の生活で成立していた)法則への信憑性は高まる.
その信憑性とは,普遍性の別名である.
なぜ普遍性が気になるかと言えば,その法則が万人に成り立ちうる可能性を開くからである.

+*+*+*

久しぶりに考えるととりとめがない.
(「いつものことだろ」というツッコミは受け付けません.だって自分でもう突っ込んだし)
名古屋出張自体は終始恙なく,
唯一の事故といえば帰って来てから行く前に作ってた生野菜サラダを食べてアたったことだけ.
(確かに生野菜サラダは乾いた雑草の臭いがしたが毒性は感じられなかった.
 もしかすると皮をむいて保存していたリンゴが悪かったかもしれない)
腹痛に悶え苦しみ,耐えきれず飲んだ正露丸がまた消費期限2年過ぎてたりもしたが,
もう飽きたのかそれは大丈夫だった(←意味不明).

ということでやっと日常に戻る.
…しかし年末は何やら忙しそう.
残業時間が何の違和感もなく増えつつあるので,
一度スパっとテイジソッコウせねば.
…まあマイペースで.
# by chee-choff | 2011-12-14 00:54 | 読書 | Trackback | Comments(0)
食べた名古屋めし
・味噌カツ
・きしめん
・どてに

反省点
・東場チーチャで序盤にメンタンピン張ったのに三色狙ってダマテンしたら下家に安上がりされた
・赤5に振り回されて迷走しまくった
・高目に見えたタンのみゴミ手で強く出てハネマン振り込んだ

総括
・オリに躊躇しなくなったが,振り込みリスクと上がりリターンの損得計算がまだ安定しない.これは時に手牌の美しさに見とれて翻数を軽視するせい(←勝負師失格ですね)のと,(手牌が)テンパって(気持ちが)テンパるから.後者は場数を踏まないと改善されない気がする.
・基本姿勢が守りなのは良いが,勝負所で攻めに転じるフットワークが非常に重い.性格が打ち筋に出ているのは認めるとして,これは全然客観的に打ててない証拠.時間をかければ分かるはずなので,やはりこれも経験不足のせい.

まあそんな頻繁にやろうと思わないが…多くて年一回すね.



以上は下書きで,報告書の清書は会社で書きます(嘘)
# by chee-choff | 2011-12-11 23:09 | 社会人 | Trackback | Comments(0)
冥土の土産にメイド長。

+*+*+*

明日から出張いってきまー
4泊5日で名古屋です.
出張なので,仕事です.

──何の仕事?

学会です,シンポです.

──何の学会?

企業秘密です.企業だけに.

──それはシャレですか?

これはペンです.

──「シャーレ」ではなくて?

ふふ(笑)



闘ってきます.
仕事です.
大事ことなので二度言(ry

# by chee-choff | 2011-12-05 23:10 | 社会人 | Trackback | Comments(0)
一つ前の記事のオヤジギャグ(でもないか)にもバカ笑いできる人間が昔いたなあ,とふと思い出す.
人類の半分が彼女みたいに熱力学第2法則を無視できればエネルギィ問題なんて一瞬で解決するのに.
あああと例のYY嬢と遭遇するとエントロピィが冪乗に増大する「空間の歪み」も観測されていた.
あれはゲシュタルト崩壊でなくて「ゲシュタルト創造」だわね.

H大SWING「太田胃散」登録No.005 "U井嬢"
特徴
・よく笑う
・唐突に笑う
・自分にツッコんで笑う
・ツッコんだ自分に笑う
・(以下無限ループ)
事例
・「この前八百屋で私売っとった!あははははははははh」
 (解説:「うるい」という野菜(山菜)があるらしい)

…内輪ネタというか内輪ですら意味不明ですねすみません.
いやあ元気にしてるかなあ(遠い目)
# by chee-choff | 2011-12-04 21:46 | 大学・大学院 | Trackback | Comments(0)
「生乾きのイヤなにおい」って要するに部屋がクサいだけでは?



朝刊半年の契約したらもらえたので.

…ので?

# by chee-choff | 2011-12-03 00:31 | 社会人 | Trackback | Comments(0)

# by chee-choff | 2011-12-01 22:30 | 社会人 | Trackback | Comments(0)
私のスープ.

【初音ミク】ごめんね ごめんね【オリジナル曲】

+*+*+*

いつの間にか風邪が治っていた.
忘れていたということは治っていたということ.
それで先週末は久しぶりに図書館へ行き,
最近巡り始めたエッセイ棚で吸い寄せられた一冊があった.

『水の透視画法』(辺見庸)という本.
「水」と「視」に惹かれ,手に取って綺麗な装幀に見とれたのだと思う.
あと名前にも見覚えがあって…前の朝日書評担当者だったかな?

読み始めてから気付いたのだけど,やはり「年配の方々」と最近は縁が強いらしい.
辺見氏の文体はオブラート薄く核心を衝いており(それが悲観的にも聴こえる),
しかしとても落ち着いていてゆるりとした時間の流れを感じる.
時代の速さに呆然とし,それを憂うが,現代への眼差しは研ぎ澄まされている.
移り行く事象を透かし見,その奥にある(変わらない?)ものを画かんとする.
やはり若者には到底体現できない「弱さと強さの両立」にしばし耳を傾ける.

言い回しが多少古いようで,最初から何度も立ち止まることがあり,
文脈からの推測はもちろんできるのだが今まで見ない言葉がわりと多く,
辞書を引きながら読み進めることにした.
たまにはそういう読み方もしないとね.
(会話で発語寸前に固まることが多いのは単語の「通用する意味」に普段重きをおいていないせいで
 口が違和感に気付くからなのだが,それは推測読みばかりでろくに意味を調べないせいかもしれない)
なるべく前後の文脈と調べた単語を混ぜこぜにして「エピソード記憶」をしてみよう.

>>
「狂人日記」を読んだときのことだった.いまからちょうど九十年前に生まれたこの短編小説を,若かった私は,けっして昔日の中国の物語とはとらなかった.生きのびるために人が人を食らう社会──という極限の暗喩を,魯迅の封建中国観,儒教批判と受けとめることもできなかった.「食人(カニバリズム)」とは,中国という地理的,文化的,時間的枠を突破した「私たちのいま」だと思ったのだ.つまり,日本や米国の現在にも,視えない食人とその無限連鎖がある,と.
辺見庸『水の透視画法』p.67
>>
# by chee-choff | 2011-11-30 23:48 | 読書 | Trackback | Comments(0)
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